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10月, 2014の投稿を表示しています

マラソン体験メモ

以前から旅行はひとりですることが好きで、ひとりで旅をしているからこそ得られる喜びみたいなものを強く享受している自覚があったんだけど、その感覚の正体がいまいちよくわからなかった。 そして今年、たまたまひとりで山に登ったりする機会が増えたり、ひとりでジョギングを日常的に行う習慣が身についたりした。そこで驚いたのが、ひとりで登山することでも、ひとりで淡々と走り続けることでも、ひとりで旅するときに感じる喜びと似た感覚が得られるということだった。 この感覚の正体は一体何なのかなーと色々考えてみたんだけど、いまいちよくストンとハラオチする結論に至らなかった。共通するのは、いずれもひとりで肉体や精神を使うことだということだった。 そんな時に先輩に勧められて読んだ一冊の本に、自分が求めている概念のヒントみたいなものが書かれていた。 極論をいえば、死ぬような思いをしなかった冒険は面白くないし、死ぬかもしれないと思わない冒険に意味はない。過剰なリスクを抱え込んだ瞬間を忘れられず、冒険者はたびたび厳しい自然に立ち向かう。そのようなある種の業が、冒険者を支配していることを否定することはできない。 あらゆる人間にとっての最大の感心事は、自分は何のために生きているのか、いい人生とはなにかという点に収斂される。 冒険は生きることの意味をささやきかける。だがささやくだけだ。答えまでは教えてくれない。 (上記のふたつの引用はいずれも角幡唯介 著「空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む」より) 上記の引用内の「冒険」と自分の旅行や登山、ジョギングを同じレベル感で語るのは無理があるが(僕の旅行やその他は全くもってそんな高尚なもんじゃない)、それでも何か通じるものを感じた。 何かしら自分を過酷な状況下に置いて、自分の意思で物事を決めたり、あるいは何かを達成したりする事に病みつきになっているんだと思う。肉体を痛めつけたり、心が折れそうになる体験をした時に、何か、自分という存在を再認識できるきっかけを見いだせると思っているのかもしれない。そしてそんな状況下では、誰かに考えを変えられたり、あるいは助けられたり、その為に義理を感じて思考や行動を制限される事はナンセンスだから、ひとりでいる事が好きなのかなと思う。ようわからんけど。 今、諸々

インド、ラダック探訪記 その5: シャンティストゥーパ、レー王宮など

薄い空気に息を切らしながら坂道を登ると、荒涼とした、しかし美しいレーの町並みを見下ろせる高台に辿り着いた。 ここシャンティストゥーパはレーの外れにある丘陵にあるストゥーパで、日本人の仏僧によって建立されたらしい。 定期的にメンテナンスされているのだろう。殺風景な背景の中に鮮やかに塗りたくられたペンキの色が眩しい。 坂の下で待っているタクシーの運転手には悪いが、人気のない境内をゆっくりと歩いて回った。 僕以外には、旅行で来た裕福なインド人と思しき家族が一組いただけだ。 空気が薄いことに加え、風は強く、気温は低い。住環境としては決して良くない。それでも、耳を澄ますと、大工が電動ドリルを操る音、車が走る音、家畜が嘶く音、子供が叫ぶ音、様々な音が聞こえてくる。そこには確かに生活があり、人々の息遣いが聞こえてくるのだった。 "LAMDON"。遥か遠くの丘陵の斜面には何かの文字列が大きく描かれていた。後ほど確認してみると、どうやら現地の中学校の名前のようだった。 目に映る山々や建造物、その他諸々は、僕の興味を引くに十分だった。 山を越える、物資を運ぶ、上下水道を整備する、電線を張る、石を積む、木を組む、タルチョを渡す。 意味もなく、眼前の景色が完成するまでに重ねられた人々の苦労を思う。シャンティ・ストゥーパを作ろうと思い立った日本人の仏僧を思う。 その後、タクシーでナムギャル・ツェモ・ゴンパへ向かった。 歩いて登る事も出来るが、昼間の倦怠感を思い出すと今日は大人しく車を使ったほうが良いと思われた。 ナムギャル・ツェモ・ゴンパのある山を下り、旧レー王宮に向かう。 残念ながら、王宮の中に入ることは出来なかった。 チベットはラサのポタラ宮が作られた際このレーの王宮がモデルになったという事ということだが、確かに似ている。 建造されたのが16世紀だそうで、未だなお美しい姿をとどめているのは改修のお陰と思われる。 夕方旧市街に戻り、街にただひとつだけあるという酒屋でキングフィッシャーを瓶で買った。 宿に戻ると夕暮れが始まっている。 屋上に上がりその様子を見守っていると、宿の主人も部屋から出て来てたので、他愛もない話を少しだけした。 残念なが