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パキスタン - その3: カリマバード、ラホール


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▲フンザの中心的な集落であるカリマバードをぶらついていた折に出会った地元の子

翌日早朝、再び例のポイントへと向かって見ると、彼の言うとおり水の流れが止まっており、僅かに車1台が通れるほどの隙間が片付けられていて、僕らはやっとカリマバードへたどり着くことが出来たった。

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▲バルティット・フォートとカリマバードの集落

カリマバードはかつてフンザ王国の藩主が住んでいた。未だにその住居であったバルティット・フォートは修繕を繰り返されながらも当時の姿を留めている。この城塞の歴史は(恐らく)15世紀から始まっておりかなり古い。王の住まいとして当時なりに堅牢で豪華に作られたとは言え、このフンザのあまりに厳しい自然環境の中においてはやや頼りなく見えなくもない。イギリス人達がこの地を訪れた時、この王の棲家を見てどう思ったろう。少なくとも、その国力に恐れおののくことは無かったんじゃないかな、と思ってしまう。冬の寒さを凌ぐために、一部屋辺りの面積を制限したんだと思うが、王や王女が踊り子を招き宴を開くのに使ったという部屋は、僕の住む家のリビングと大差ない広さに見えた。窓から見える渓谷と農村の風景はとびきり美しかったのだが。

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▲カリマバードの小道

登山家の故長谷川恒男氏の奥様が建てられたという学校があるという事で、ぶらりと立ち寄ってみた所、中を見学させてもらえた。それは僕らが日本人だからだったのかもしれない。施設はとても立派なもので、蔵書を眺めてみると英語で書かれた書籍が多く、ジャンルも幅広く取り揃えられている。パキスタンの平均的な僻地の学校と比べると大分恵まれているのではなかろうか(他を見たことがあるわけではないけど)。長谷川氏は、カリマバードからもその姿を拝むことが出来るウルタルのⅡ峰で雪崩にあって亡くなったそうだ。滞在中、何度も山の方を見やるのだが、常にガスっていて全体像を把握する事は結局出来なかった。

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▲レディースフィンガー

一方、いつか見てみたいと思っていたレディースフィンガーはしっかりと目に焼き付けることが出来た。この不気味なナイフのような山は、1995年に山野井泰史氏が独自のルートで登攀したそうだが、途中で食料が尽き果て、ラマダンのように痩せ細ってしまったという。冷たい垂壁に何日間も張り付き、岩雪崩に怯えながら空腹を耐え忍び、ジリジリとてっぺんを目指す苦労はとても常人に真似出来るものではない。自分も山をやる人間の端くれとしてこんな格好いい壁を登ってみたいという思いはあるものの、生きているうちに十分な登攀技術と知識を身につけられる気はしない。

フンザといえば、滞在中にずっと気になっていた事がある。イスラム圏であるはずなのにアザーンが聞こえないのだ。調べてみてわかったのだが、どうやらパキスタンの中でもこのフンザにいるムスリムたちはシーア派の中でもイスマイール派に属する人たちで、比較的ゆるいルールの中で暮らしている。だからフンザには、アザーンも無ければそれを大音量で流すミナレットもないし、なんだったらモスクも無い。イスラム圏では毎朝アザーンに叩き起こされ、夜はアザーンに耳を傾け1日の終わりを知る、そんな暮らしが当たり前だと思っていた僕にとって、この光景は少なからずショッキングだった。ラダックを旅した時にレーで聞いたそれが僕のアザーンの原体験なのだが、そのあまりに美しいビブラートに心が打ち震えて以来、行く先々のアザーンを聴くことが一つの楽しみになってしまった。

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▲ギルギットの床屋

僕らはカリマバードに1泊した後、再びイスラマバードに戻るべくギルギットへ向かった。ギルギットの小奇麗なホテルに一泊し、そこで久々の熱々で透明な水のシャワーにありついた(フンザのシャワーは抵抗感を覚えるほど茶色で、カリマバードの宿のそれに至ってはほぼ冷水だった)。

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▲ギルギットの八百屋

ギルギットの夜は暗く、冷たい。僕らは街灯もまばらな街のメインストリートをあてもなく彷徨い、ひんやりとした街の温度を確かめる。薄暗い物陰から何かが飛び出してきて、思わずおののく。それは何のことも無い、夜の買い物に出かけるひとりの男性でしかなかったりするのだが、僕らの目にはなかなかそれが何なのか捕捉出来ない。ふと、沢木耕太郎がたどり着いたカルカッタの街の描写を思い出す。少し違う事があるとすれば、この街は僕らに無関心で、誰も歩くものの脚を掴んだりはしないことかもしれない。或いは、ヒッピーがいないことかもしれない。

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▲ラホールの街並み

実は帰りの飛行機が無事飛ぶかどうか確信が持てず、ヒヤヒヤしていたんだが、その心配は杞憂に終わった。僕らは無事予約していたフライトでイスラマバードに帰り、その足でパキスタン中部の古い街、ラホールへと向かった。何故ラホールかという点について大した理由は無い。首都であるイスラマバード、辺境のフンザ、あと一箇所巡れる時間的余裕があって、それなりにアクセスが良さそうで、安全そうなところ(ラホールはこの2ヶ月ほど前にキリスト教徒を標的とした大規模なテロがあったばかりだったが、それでもアフガニスタン国境付近へ向かうよりはまだ安全そうだった)。ラホールの歴史は長く、かつてはムガル帝国の王朝もあり、歴史に興味がある人間であればさぞ面白いのだろうが、残念ながら僕らはその辺りの世界史に疎かった。

余談だが、パキスタン国内をバス移動するに辺り、幾つかある運行会社の中から利用する会社をチョイスすることになる。前評判が良かったのはサンミ・ダーウー(Sammi Daewoo)という会社で、定刻通りの運行に加え、サービスの質が段違いに高いらしい。ちょっと詳しい人なら名前を見ただけでピンと来ると思うが、韓国系の資本が入っているようだ。僕らは迷わずこの会社のバスに乗り込んだわけだが、イスラマバードからラホールへの4時間半の道のりは非常に快適なものだった。専用のバススタンドのセキュリティは厳重であり、バスに乗り込む折も一人ひとりの顔をビデオ撮影される。テロを起こそうにもなかなか面倒な努力が必要なことには安心感を覚えるし、何より驚いたのは車内でWi-Fiが利用できることだった。

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▲夜のラホール旧市街付近、ファストフードのスタッフ達の夕食

ラホールに到着してみるとなるほど土埃の舞う、赤レンガの建造物の目立つ街並みで、イスラマバードと比べると格段に歴史の古い事がわかる。そしてその古さ故なんだろうか、やはりイスラマバードと比べて保守的な様相が強く、それは街に出歩く女性の少なさに見て取れた。イスラマバードのカフェ(!)でセルフィー(!!)を撮る女性の姿を目にしたときは、その「イスラムっぽくなさ」にズッコケそうになったものだが、勿論ラホールにおいてはそんな光景は皆無だった。

しかしそんな「イスラムっぽい」ラホールにおいて、夕食時に女性と会話を交わす機会があった。

ふらりと立ち寄ったレストランは、1Fはローカルでごった返し熱気で蒸しているが、2Fは客がまばらでエアコン付きのようだった。何故快適な2Fに客がまばらなのか、ぱっと見た時点で理由がわからなかったが、しばらく経って何となくピンときたのは、1Fにいるのは男達だけで、2Fにいるのは幼い子供のいる家族連れ、あるいは女性のみのグループだけだということだった。何かしらのローカルルールあるいは宗教的な考え方みたいなものがあるんだろうが、こちらは異邦人、おまけに僕が今回の旅を共にしている友人は女性で、連れ立って歩いていると夫婦に見られなくもない。ここは2Fに腰を落ち着けたとて白い目では見られないと考え、悠々と涼しい食卓を手に入れた。

男性の目に止まらない空間だろうか、隣のテーブルを囲む若い女性のグループは賑やかに、楽しげに会話を交わし、時折無邪気な笑い声が響いた。「何を喋ってるんだろうね」なんて会話を交わしながら、注文した口に放り込んだチャパティをコーラで喉奥に流し込んでいると、そのグループのひとりに英語で話しかけられた。「一緒に食べない?」と。

彼女たちは6人程度のグループで、歳はハタチ前後、若かった。ひとりだけが英語を話せるようで、通訳になってくれた。外国人が珍しかったんだろう、勇気を出して話しかけてくれたのが痛々しい程にわかるくらい、恥ずかしそうだった。彼女たちが身振り手振りを交えてシェアしてくれるカレーとチャパティはとても食べきれない量だったが、頑張ってそれらをパクつきながら、色々な話をした。皆ラホールで看護師をしているとのことで、仕事帰りらしい。そして皆、名前を聞いてもわからないような地方都市から出てきて、寮に寝泊まりしながら働いているとのことだった。「仕事は無茶苦茶忙しい」、「けど、みんなで働くのは楽しい」、「故郷には両親と弟がいる」、エトセトラ、エトセトラ。僕らの質問に答える度に、キャッキャと笑う。一人の子がリーダーで、その隣の子はお調子者、その隣の子は人一倍奥手で、更にその隣は不思議ちゃん、エトセトラ、エトセトラ。

なんてことは無い、この世界は、均一で、そして多様だ。そんなことを彼女たちが帰りがらんとしたレストランの2Fで、僕たちは確認した。

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▲世界最大規模であるバードシャーヒー・モスク

ラホールに着いて二日目は、迷路のような旧市街を彷徨いながら大小のモスク、城跡を見て歩いては「ホー」とか「ハー」とかため息をつき、喉が渇いた頃に気の良いおっさんにジュースを奢られたりしているうちにあっという間に過ぎ、僕はいそいそとイスラマバードに帰るべく(帰国のフライトはその日の夜だった)、再びSammi Daewooのバスに飛び乗った。

こうして僕のパキスタンへの旅は幕を閉じる。

なぜ、パキスタンに来たいと思ったのか、帰国して大分経つ今となっても理由はよくわからない。ただ、この国が、最近どこか不感症気味だった僕の旅行者としての感覚を大いに刺激してくれる、そんな国であった事は確かだ。

いつだって旅の行き先を決めるのに大仰な理由はいらない。山が見たかったから、酒が飲みたかったから、一人になりたかったから、その程度じゃないかなと思う。目的を一生懸命考える事を放棄して、ぼんやりと浮かぶ憧憬とか、欲求とか、願望とか、その辺をなんとなくカバンに放り込んで、出かけること。両手のひらにそっと包んで持ってきた低次でプリミティブなモヤモヤと、目の前の鮮やかな光景とを見比べてニヤニヤすること、加えて、恥ずかしさを紛らわすかのように煙草をふかすこと。旅を構成する要素なんてこんな曖昧なものかもしれないと思う。だからこそ、旅の面白さの再現性は低いんだと思う。

次にパキスタンに訪れることが仮にあったとして、その時ぼくはワクワクできるだろうか。それはやはりわからない。面白くもないかもしれない物事の為に、それなりにまとまったお金と時間を投資することは馬鹿げていると思う。それでも僕は、ふと訪れるしょうもなくも愛おしい感情の波に流される。ムダで徒労かもしれないけど、そういう遊びにずっと取り憑かれている。

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パキスタンについて
その1
その2

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