スキップしてメイン コンテンツに移動

チュニジア - チュニスとシディ・ブ・サイド




2016年の年末、僕はチュニジアに旅に出た。
なんだかんだで初めてのアフリカ大陸である。最初はタンザニアにでも行こうかと思っていたんだが、なぜこうなったかは経緯をよく覚えていない。
いつの間にか、青い地中海と沿岸の白壁、砂塵が顔面を容赦なく刺すサハラ砂漠、カルタゴだ、ジャスミン革命だと、とにかく気分はすっかりチュニジアになっていた。勿論、僕は天邪鬼なのでエジプトやモロッコはハナっから候補外だ。

IMGP1133.jpg
▲バビブ・ブルギバ通り沿いの大聖堂

チュニス・カルタゴ空港から市内へは10分そこらで着いてしまう。首都ながら、こじんまりとしたサイズ感の街である。人口も100万程度らしい。

ジャスミン革命を報道する記事等でよく見ていたのがバビブ・ブルギバ通りというチュニスきってのメインストリートだが、当時、国旗やプラカードを掲げ通りを埋め尽くしていた人々はどこかに消え、空間を持て余したその様相からはどこかもの寂しい印象さえ受けた。ただ、革命後ならではと思しき光景も所々に見て取れて、それは、ジャンベかなにかを打ち鳴らす人がふと現れ、その周りに徐々に人が集まり、熱気を帯びていく様であったり、そういった群衆が何かのキッカケで暴れ出さぬか警戒している何台ものパトカーと警官たちであった。

そういった群衆は時に数十人規模にまで膨れ上がり、集まった人々の輪の中心では踊りだす人たちも見受けられる。でもその衝動は、何かを強く訴え、物事を変えんとするような力に昇華することはなく、ただただ発散して1時間もすれば消えてしまう。まるで海底からぷくりと吹き出した水泡がふわふわと浮かび上がって水面で泡となり、ぱちりと割れて静かに大気に吸収されていくかのように。そんな様子を、通りに面した宿泊先のホテルの一室から見下ろしていた。

IMGP1172.jpg
▲メディナ(旧市街)の入り口となるビクトワール広場

チュニジアでは古くからある市街地の事を「メディナ」と呼ぶ。同じメディナで有名なのはモロッコのマラケシュのそれだが、一体北アフリカのどこからどこまでの地域でこのような呼称が使われているのかよくわからない。

チュニスのメディナの入り口はちょっとした広場になっていて、その淵にはパリを彷彿とさせるようなオープンテラスのカフェが並んでいる。人々はそこで新聞を読んだり、買い物帰りに一息ついたり、友だちと談笑をしていて、その様はとても西欧的で都会的だと感じる。

IMGP1202.jpg
▲夕暮れのメディナの外れ

メディナに共通しているのは、外敵から街を守るため、城壁で囲われている点だ。そして内側に一歩入れば、そこから先はアラブの世界。入り組んだ細い小路には商店が並び、日用品や洋服、香料などを買い求める人にぎゅうぎゅうと押し流される。自分がどこから入って今どこにいるのか、メディナの端まで後どれくらいの距離にいるのかなんて事はあっという間にわからなくなる。そんな状況で出来ることと言えば、なんとなく人々の流れに従って、ちょっとしたスペースに吐き出されるタイミングを待つだけだ。

この途方に暮れるような感覚はちょっとしたデジャヴだった。パキスタンのラホールの旧市街もこんな感じだったっけな。

IMG_4117.jpg
▲朝焼けのチュニス中心地

チュニス2日目、僕は近郊の地中海に面した遺跡や観光地を列車で見て回ることにした。

IMGP1221.jpg
▲郊外列車TGM

郊外に出るには、チュニス・マリン駅という駅から出ているTGMという列車に乗る。乗車には持ち物検査などの面倒な手続きは一切なく、外国人旅行客にも優しいつくりである。

IMGP1231.jpg
▲段ボールの中から鳩を取り出した少年

IMGP1244.jpg
▲チュニス湾

車窓から時折、地中海が見える。30分も揺られれば、カルタゴ地区に到着する。

フェニキア人によって作られた古代カルタゴは海上貿易を中心に非常に栄えたそうだ。しかしローマ帝国との戦争を何度も繰り返し、最後には陥落してしまう。カルタゴの復興を恐れたローマ軍は、土地に塩をまいて作物が出来ないようにしたとのことで、昔の人々は時々無茶苦茶なことしよるなという感慨である。

IMGP1267.jpg
▲カルタゴ、ビュルサの丘

IMGP1287.jpg
▲カルタゴ、アントニヌスの共同浴場

ローマに蹂躙されたフェニキア人も、その後カルタゴを再活用しようと判断したローマ人も、この海岸から同じ地中海を眺めていたんだろうと思う。数百年の歴史は、その過程で流れた人々の汗や血は、風雨によって侵食された当時の建築物から何となくうかがい知ることが出来る。

ビュルサの丘には、「カルタゴ博物館」なる施設がある。ここでは、ポエニ時代からローマ時代に至るまで、地中海の交易品だとか街の復元模型だとかを見ることが出来るが、カルタゴが何たるかをろくに予習してこなかった僕のようなヌルい観光客でもおおよその必要知識を補完できるので有難い。

IMGP1292.jpg
▲シディ・ブ・サイドのメインストリート

カルタゴから更に北へ数キロ進んだ先にあるのがシティ・ブ・サイドだ。壁は白、窓枠や扉は鮮やかな青に統一されたこの町は、いかにも地中海沿岸の小奇麗さを湛えていて、ぶらついていてとても心地よい。

IMGP1305.jpg
▲みんな訪れるカフェ・シディ・シャバーン

この日はどんよりとした天気のせいで、眺望もちょっと残念なものだった。訪れるのならやはり夏が良いのかもしれない。せっかくなら、水面にキラキラと反射する陽光に目を細めたり、吸い込まれそうな青空を眺めてははるか先にあろうシシリア島に住む人々の生活に思いを馳せたりしたいものだ。冷えたペリエなんかがあれば流れるほてる身体を冷やすにはちょうど良いのだろう。

IMGP1317.jpg
▲シディ・ブ・サイドの小道

シティ・ブ・サイドの駅で再びTGMに乗り込めば、30分でチュニスに帰ることが出来る。僕はこの日の夜、中部の町に列車で移動する事になっていたが、出発までの時間をどう潰そうかなんてことをぼんやりと考えていた。

-------------------
チュニジア - スース
チュニジア - 道程
チュニジア - トズール

このブログの人気の投稿

やっぱり北千住で魚食うなら「廣正」(広正・ひろまさ)だよねという話

先日、またしても北千住は「廣正」(広正・ひろまさ)で飲んだのだが、相変わらずの信じられないコスパの良さにおったまげた。 JR北千住駅東口から徒歩10分、民家がひしめく薄暗い通りに突如現れる小さなお店に酒飲みの面々が到着したのは20時半。 着席しドリンクをオーダーするとまもなくお通しが現れた。この日のお通しは鶏肉の照り焼きと玉子焼き、わさび漬け的なものにぶり照り。 メニューには様々な魚料理が並んでいるが、全て時価(安い)。 この日は友人が予め予約を入れ、その際に刺盛りを2人前だけ準備しておいてもらうよう頼んでくれていたので、すぐに下駄盛りにされた各種の魚たちが登場。相変わらずとんでもない量と分厚さである。(でも安い) 期待を裏切らない迫力に各々感嘆を上げているうちにお酒が揃ったので乾杯。 赤身です。 ホタテです。 タイです。 赤貝です。 うめえうめえと大騒ぎしながら皆でぱくつきまくっていたのだが、なにせこの料である。刺し身だけで腹が膨れる。 しかし刺し身だけ食べて帰るのもあまりにも勿体ないので寄せ鍋を注文。 これまた2人前なんだけども、やはりボリュームがおかしい。 出汁を沸騰させる間、箸休めにと頼んだのが梅キュウ。 ただの梅じゃなくて梅水晶になっていて、とても幸せな気持ちになります。 やがて鍋が出来上がったのでひたすら食うた。 そしてたくさん飲みました。 当然雑炊にするよね。 おじやが出来るまで、せっかくなので後一品くらい食べてみようとしめ鯖を追加。 こちらもぼちぼち油が乗っていて美味。(しかし安い) そうこうしてる間に雑炊が完成。食い終わった頃には多幸感でとろけましたとさ。 何杯飲んだかよく覚えてないくらい酒も飲み、この料理を食って会計は驚きの3000円台。 一体どうやったらそういう会計になるのかよくわからん。 ごちそうさまでした。   大きな地図で見る

北千住の廣正にハマりそう

昔、日光街道の宿場町として栄えた北千住には、今でも下町然とした安い居酒屋が軒を列ねている。以前、北千住に詳しい友人に町を案内してもらってからというもの、この町のサグい雰囲気にすっかり魅了されてしまったのだった。 先日、その友人に連れていってもらった、魚が異常に美味くて安いお店に再訪してきた。 これで刺盛1人前なのです。 魚料理が並ぶこの店のメニューには値段の記載がなく、全て時価なんだけど、とんでもなく安いので心配無用。 いい塩梅に酔っ払うまでこの日も色々と美味しくいただきました。 北千住の駅から10分程度歩いた(けっこう遠い)民家の並ぶ路地にひっそり佇んでいて、人の案内なしで向かうと見つけるのはちょっと大変かも。 早くもまた行きたくなってきたぞ。 廣正 (地図で見ると北千住より牛田からのが近いみたい) 大きな地図で見る

ミャンマー(その13) - アイ・ダブ・フィシュ

そしてまた僕らは馬鹿みたいに飲んでいた。 オールドバガンから戻った僕らは、宿で一休みしてその日の晩飯にありつくためにガイドブックを舐めまわし、ビールが飲めてWi-Fiが飛んでいると書かれていた一件の観光客向けのレストランに狙いを定めた。 先輩の人生観もしくは結婚観的な話に耳を傾けつつ、しこたまミャンマービールを煽る。晩飯を兼ねて頼んだツマミはすべて中華風に味付けされた炒め物だった。 ビールに飽きて例のゴールデンなんとかというウイスキーを水と氷で割ってやり始めた頃だったか、隣の卓で同じく酩酊していたミャンマー人の一行に話しかけられた。 3人で飲んでいた彼らのうち一人は圧倒的に綺麗な英語を喋るおっさんで、聞く所によると外交官の子息として日本をはじめ諸外国に何年も住んだことのあるような人らしかった。 彼の政治経済についての考え方は、この東南アジア最貧国ランキングの1、2番目を争う国の片田舎で出会う人間とは思えないほど洗練されており、話の随所に教養の片鱗が見て取れた。また、多くのミャンマー人がそうであるように、彼も親日的な考えの持ち主であるらしく、最近何かと話題に上るお隣の国々に対して悪態をついていた。 当然、彼の興味は、当事者である我々日本人が諸々の国々との関係についてどう考えているのかというところに及ぶ。本当に情けない話だが、僕のあまりに貧しい英語力では自分の考えを1ミリも伝えることができず、せっかく親しげに話題を提供してくれた彼の期待に応えることはできなかった。 せめてものお返しにと、ミャンマー、あるいはビルマの軍政について彼の考えを聞いてみると、彼は素晴らしい英語で淀みなく、朗々と持論を披露してくれた。これから大きく経済発展を遂げるミャンマーにおいて教育の拡充は喫緊の課題であるらしく、それはようやく軍政が収縮した今のミャンマーだからこそ解決可能な課題であるというような話をしていた。気がする。 ベロンベロンに酔っ払った僕らは彼らと別れを告げ、既に日付が変わっているにも関わらず営業を続けていた殊勝な商店に立ち寄り、マンダレービール(恐らくアルコール濃度の高いバージョン)の大瓶とミャンマービールの缶をそれぞれ3本ずつ買い、瓶をラッパ飲みしながら涼しくなった夜道をふらふらと帰った。 宿の戸はもちろん閉ざされていたが、びゃーびゃー...