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ミャンマー(その14) - それはただの気分さ

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僕らは宿へ帰る道すがら、その日の午後のフライトの時刻まで改めてタクシーをチャーターすることに決めた。

宿に帰った時刻は8時頃だっただろうか。準備もあるので11時に改めて宿に迎えに来てほしいと伝え、ドライバーと一旦別れた。

再びベッドに潜り込んで浅い眠りを楽しんだりしている間に11時になり、約束の時刻より5分ほど早く、彼は彼の弟を連れてやってきた。どうやらこの日のドライバーは弟が担当するらしい。のそのそと荷物をまとめ宿をチェックアウトする。

二日酔いの僕らは力なく、前日とは打って変わってとても無口な若い男が運転するハイエースに乗り込んだ。彼の歳は僕らとそう離れていないように見える。時折見せる笑顔に、噛み煙草のやりすぎて真っ赤に染まった歯が映えるのが印象的だった。

彼は、僕らをまずエーヤワディー川のほとりに連れていってくれた。眼前にあるのは、ただただたゆたう泥色の大河だけだ。その様は特段面白いものでもなかったが、倦怠感の塊のようになって思考の停止した僕らにとっては優しい光景だった。

何本かの煙草をぷかぷかとふかし、中身の無い会話を交わす。僕らの口から出た意味のない言葉はすべて、僕らを取り囲む緩慢であたたかい空気に吸い込まれていく。やがて、昼飯を食える程度には腹が空いてきたことに気づいたのであった。

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ドライバーが連れてきてくれた通りには、外国人旅行客向けのレストランがいくつか軒を連ねていた。

何も考えずにその中のひとつを選び、着席してメニューを眺めて僕らは愕然とした。どうやらベジタリアン専用のレストランに入ってしまったらしい。店を選びなおすことも考えたが、接客に出てきたオーナーとその妻と思しき女性の嬉しそうな笑顔を見ているとどうも席を立ちづらい。仕方なくその時だけは菜食に徹することにした。

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腹が満たされしばらくすると、徐々に二日酔いも回復してきた。

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その後僕らが向かったダマヤンヂーという寺院は、王位継承のために父王と兄王子を殺めた男が、罪滅ぼしのために建て始めたという寺院である。当時最も大きく、凝った細工が施された寺院が出来上がるはずだったが、その親殺しの王も何者かに暗殺され、未完のまま今日を迎えているというなんとも暗鬱なエピソードを持っている。

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「ジャパン?」

挨拶代わりに国籍を聞いてくるのはアジア圏のどこの国の物売りも同じなんじゃなかろうか。寺院の入り口にてお決まりの文句で声をかけてきた物売りは、まだ中学生くらいの女の子だった。

いつも通り適当にあしらおうとしたが、なかなかしつこい。寺院内までついてきて必死にしょうもない絵葉書を売りつけようとしてくる。

彼女はそれまで出会ったミャンマー人の誰よりも日本語を話せた。驚くべきことに、彼女が日本語で投げかけてくる質問に対し、からかうつもりで韓国語で答えると、その韓国語すら彼女は理解していたのだった。

どこで外国語を覚えたのか尋ねると、バガンを訪れた観光客が話しているのを聞いて覚えたと言うのだからさらに驚きである。もしや、こんな商売ばかりしてちゃんと学校に通わせてもらえていないのではないかといらん心配をしてしまったが、普段は学校に通っていて今日は休みなのでここに来たとのことで安心した。

そのハツラツとした振る舞いのお陰か、彼女からは観光客相手の物売り特有の卑しさは感じられなかったので、僕らは彼女を追い払うことなく、一緒に寺の中をぐるぐると見て回った。

彼女は一生懸命ガイド役を果たしてくれたが、ぼくらは彼女からしょうもない絵葉書を最後まで買わなかった。別れ際にミャンマー語で悪態をつかれた時にはさすがに少し申し訳ない気持ちになった。

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そんなこんなを経て、バガン探訪における最後のパヤーとなる、ダマヤズィーカ・パヤーへと僕らはやってきた。

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尖塔部分に赤い色が目立つのは、恐らく金の装飾が剥げ落ちてしまっているからであろう。土台に当たる部分は幅広でどっしりとしており、安定感を感じるその姿はなかなか美しい。

オールドバガンの中心から大分離れたこのパヤーの人気は少なく、物売りの姿を見ることもなかった。

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2階部分に相当するテラスをぐるぐると歩いて回る。決して有名なパヤーではないようだったが、誰にも邪魔されずに装飾の仔細を眺めることができた。

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このパヤーからの眺めも、なかなかのものだった。最後の最後に、再びバガンの地を一望できるパヤーに連れてきてくれたドライバーに僕らは感謝した。

名残惜しさを感じながら静かに眼前の光景を眺める。このパヤーから立ち去る前に、僕らはささやかな記念写真を撮った。

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帰りのフライトに合わせ、空港へと戻ってきた。

実はここで先輩の航空券をめぐって一騒動あったのだが、もう一人の先輩のブログに事の顛末が細かく綴られているので割愛したい。

飛行機に乗り込んだ頃には日はどっぷり暮れており、空港の外は暗闇に包まれていた。

シートに尻を収め、ベルトを締める。この時に僕は、この旅がいよいよ終わりに向かいつつあるイメージを漠然と感じていた。



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ミャンマー旅行記


ミャンマー(その1) - ウォーキング・イン・ザ・リズム
ミャンマー(その2) - ずっと前
ミャンマー(その3) - ブルー・サマー
ミャンマー(その4) - あの娘が眠ってる
ミャンマー(その5) - デイドリーム
ミャンマー(その6) - スマイリング・デイズ、サマー・ホリデイ
ミャンマー(その7) - ジャスト・シング
ミャンマー(その8) - メロディ
ミャンマー(その9) - ロング・シーズン
ミャンマー(その10) - 100ミリちょっとの
ミャンマー(その11) - エヴリデイ・エヴリナイト
ミャンマー(その12) - ゆらめき・イン・ジ・エアー
ミャンマー(その13) - アイ・ダブ・フィシュ
ミャンマー(その14) - それはただの気分さ
ミャンマー(その15) - バックビートにのっかって

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