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7月, 2014の投稿を表示しています

インド、ラダック探訪記 その3: レー到着

脈々と連なる山々が朝日に映える様が、機内の窓から確認出来た。ラダッキと思しき顔立ちの人々、インド人たち、そして袈裟を纏った仏僧たち。彼らの中に紛れてわずかばかり搭乗していた外国人旅行客は、僕も含め皆息を呑んだ。山々の起伏は勿論の事、その表面を覆う雪の結晶が放つ光のスペクトルすら粒さに見て取れるのではと錯覚してしまう。すれすれの所を飛んでいるような気がする。レーが近づくと、飛行機は旋回を繰り返した。 この日の早朝、僕は悪天候によるキャンセルがしょっちゅう起こるというフライトに乗るべく、予約していたタクシーで空港に向かい、搭乗ゲート前で時間を潰していた。 まどろみながら本を読んでいると、後ろから突然日本語が聞こえてきた。盗み聞きするつもりはないが嫌でも耳に入ってくるその会話内容から推測するに、声の主は決して旅行客ではない。果たしてこの季節にラダックに向かう旅行客以外の日本人がいるだろうかと驚いたが、会話の主がお子さんを連れている事でやがて察しがついた。ラダックの男性と結婚し、ラダックで旅行会社業を営まれている著名な女性だったのだ。(僕は以前からその方のブログを愛読していたので、図らずも気づいてしまった) 声こそかけなかったもののこの一方的な出会いに少しばかり感激し目が覚めた頃に、ちょうどボーディングゲートが開いた。無事、フライトは予定通り運行されるらしい。 デリーからレーへのフライトは1時間と少しだったと記憶している。 タラップを降りると辺りは曇っていて遠くの景色まで見えなかったが、自分が山間にいることだけはわかった。ひどく寒い。そして、確かに空気が薄い。 いそいそと空港の施設内に駆けこむも、屋内も寒かった。適当に運ばれてきたバックパックを確保した後、その辺にたむろしていたミニバンタクシーを捕まえ、旧市街まで向かった。あまりにも薄着の僕を見て、ドライバーは我が事のように悲鳴を上げたのだった。 この季節に営業している宿は数少ない。 レーで最も歴史の古いゲストハウスが旧市街の一角にあり、冬季でも頼めば泊めてくれるという噂を知っていた僕は、その親切な宿を目指した。 時刻は朝8時くらいだっただろうか。木製のドアを開き、人を呼んでみると老齢の主人が現れた。やはり今は営業期間ではないが、泊めてやらんことも無いという。ストーブの有無で一

インド、ラダック探訪記 その2: デリー

上海を発ったその日の夜、僕は、機内で知り合った医学部生のバックパッカーふたりと久しぶりのインド料理にありついていた。場所はデリーのメインバザール中心、ひとりだったら入らないであろう少し綺麗なベジレストランだった。 インドに来るのはこの旅で3回目だったが、デリーに降り立ったのは初めてだった。 学生の頃に買った地球の歩き方には書いていなかったが、空港からメインバザール前のニューデリー駅まで地下鉄が通っているようだ。一昔前だったら数多くの旅行者が悪徳旅行会社その他有象無象の餌食になっていたであろう件の区間が、驚くほど安全で快適で、一方で味気ないインフラによって簡単に飛び越えられた。 メトロの駅を出ると目の前にニューデリー駅があり、その向こう側がメインバザールとなっている。つまりメインバザールに出るにはニューデリー駅を越える必要があるのだが、陸橋に繋がる線路脇の階段を登れば問題ない。(駅の構内に入る必要も無かった) 駅の構内や周辺では、けたたましい音楽と共に何かのアナウンスが延々と繰り返されていた。 メインバザールの入り口に相当する辺りには悪名高いインチキ旅行会社と思しき事務所が軒を連ねていて、それを見つけて少しうれしい気持ちになった事を覚えている。ここに来てやっと、日本人旅行者にとってのデリーの典型的なイメージを目にした気になったからかもしれない。何はともあれ、薄暗い通りと雑踏、そして埃っぽく焦げ臭い空気を前にして悪い気はしなかった。久しぶりのインドに、上手く接続できそうな気がした。 メインバザールまで僕を運んだメトロの車両内には、医学部生たちの他にも何人かの日本人バックパッカーがいた。学生風の人から40歳は越えているであろうと思しきおじさんまで様相は様々だったが、皆各々細い路地に吸い込まれていった。 僕はその医学部生ふたりと妙に気があった。実習でなかなか忙しかろう年次だったが、しばしば短い休みを上手く使って海外を旅しているという。ビールを飲みたいという僕の発言に快く応じたのも嬉しかったし、何より彼らの口から出る冗談はとても知的で面白かった。この日の翌日、彼らはジャイプール方面に列車で向かう予定らしかった。 僕らは同じゲストハウスに荷をおろし、料理の旨い店を宿のスタッフに尋ねた。残念

インド、ラダック探訪記 その1: 上海

2013年末、少し早めに休みを取った僕は外灘(バンド)に辿り着いた。 東京を発って上海に到着した時は既に夜だった。デリーに向かうため上海で一泊する必要があったのだが、上海についての予備知識は殆どなかった。とりあえずバンド付近に青年旅舎があるという情報を得て、高いタクシー代にため息をつきながらここまで来たのだ。 タクシーから眺める上海の夜景はとにかくきらびやかで、東京やシンガポールのそれを凌駕するほどワクワクする光景だったのを覚えている。 目当ての旅舎に無事到着したは良いものの、生憎スィートルーム的な位置づけの部屋以外は全て満室だった。宿代は貧乏旅行者には非常に高く、苦い思いをしたが、これも今の上海相応の値段なのだろうとぐっと堪えた。それに、この旅舎を諦めた所でどこかアテがあるわけでもなかった。 やたらと広い部屋にとりあえずバックパックを放り投げた。ひどく寒い。 四方を見渡すと、頼りない小さなエアコンがひとつ取り付けられている。ひとまず適当に高い温度に設定し、そのままカメラと財布だけ持って外に繰り出した。 外灘付近は観光客でごった返していた。対岸の高層ビル群は少し霞んで見えたが、みんなPM.2.5なんてお構いなしだ。 マスクをつけて歩いているのは日本人だけだった。 通りを歩いていると、幾度と無くクレジットカードサイズの小さなチラシを持ったおばさんたちに近寄られ、風俗のキャッチセールスを受ける。 彼女達は、雑踏の中から的確に、男性日本人観光客だけを見つけては日本語で声をかけていた。デカイ一眼をぶら下げ、特段おしゃれをするわけでもなく、場違いな登山向けの様相でひとり歩いている自分は格好の的だったのかもしれない。なんとも居心地が悪かった。 これと言って面白くも無い街なかをぶらつきながら、ひとりでも入れそうな安食堂を探した。 結局宿の近くの閉店間近(スタッフが片付けを始めるところだった)の食堂を見つけ、持ちうる数少ない中国語のボキャブラリーを駆使してルースーとビールを頼み、一息ついた。しかし、この国では廃油が食用に多く使われていて、それは上海の街なかの食堂でも例外ではないとかいう話をふと思い出し、目の前の湯気を立てたルースーを見て食欲が失せたのだった。 部屋に帰るとやはり気温は依然あたたかいとはいえ