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メモ

毎日ものすごい量の雑多で新鮮な情報が飛び込んできて、それを何とか上手く捌いたり、あるいは逃すまいと手のひらを広げて受け止めようとするんだけど、到底そんなことはうまくいかない。僕にとってはあまりにも膨大な量。 ゴミの出し方や光熱費の単価について学んだり、料理の名前を覚えたり、歴史認識の片鱗に触れたり、結婚観を知ったり、文法を覚えたり、お酒の飲み方を教わったり、キャリアについて諭されたり、ジョークで人を笑わせられるようになったり、無碍に扱われたり。 こんなにエキサイティングな日々の終わりを想像することは本当に怖い。あと何日、あと何回この人たちと話すことが出来るんだろう。ついそんな事を考えては悲しい気持ちになるんだけど、この気持ちを誰にも共有できない。エイリアンであって、ストレンジャーであるが故に得られる享楽と、それと引き換えに抱えざるを得ない鬱屈なんだと思う。 つい数ヶ月前までは、今自分がこんな生活をすることになるとは思っていなかった。業界柄なのかもしれないけど、よくも悪くも一寸先は闇だなと思う。確かな事がひとつだけあるとしたら、それはこの貴重な経験を与えてくれた人たちに大なり小なり借りが出来たということだ。この借りを返す事が、何らかの前向きな動機となってくれる気はする。 -- この国で一番美味しいビールは間違いなく「Kloud」。 これまでのこの国の一般的なビールとは一線を画したプレミアムなビールなんだなという感じ。マーケティング費用も相当かけてる気がする。 https://www.kloudbeer.com/ 日本のブランドのビールでもこっちで飲むと大して美味くないので、最近はこればっかり飲んでる。

マラソン体験メモ

以前から旅行はひとりですることが好きで、ひとりで旅をしているからこそ得られる喜びみたいなものを強く享受している自覚があったんだけど、その感覚の正体がいまいちよくわからなかった。 そして今年、たまたまひとりで山に登ったりする機会が増えたり、ひとりでジョギングを日常的に行う習慣が身についたりした。そこで驚いたのが、ひとりで登山することでも、ひとりで淡々と走り続けることでも、ひとりで旅するときに感じる喜びと似た感覚が得られるということだった。 この感覚の正体は一体何なのかなーと色々考えてみたんだけど、いまいちよくストンとハラオチする結論に至らなかった。共通するのは、いずれもひとりで肉体や精神を使うことだということだった。 そんな時に先輩に勧められて読んだ一冊の本に、自分が求めている概念のヒントみたいなものが書かれていた。 極論をいえば、死ぬような思いをしなかった冒険は面白くないし、死ぬかもしれないと思わない冒険に意味はない。過剰なリスクを抱え込んだ瞬間を忘れられず、冒険者はたびたび厳しい自然に立ち向かう。そのようなある種の業が、冒険者を支配していることを否定することはできない。 あらゆる人間にとっての最大の感心事は、自分は何のために生きているのか、いい人生とはなにかという点に収斂される。 冒険は生きることの意味をささやきかける。だがささやくだけだ。答えまでは教えてくれない。 (上記のふたつの引用はいずれも角幡唯介 著「空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む」より) 上記の引用内の「冒険」と自分の旅行や登山、ジョギングを同じレベル感で語るのは無理があるが(僕の旅行やその他は全くもってそんな高尚なもんじゃない)、それでも何か通じるものを感じた。 何かしら自分を過酷な状況下に置いて、自分の意思で物事を決めたり、あるいは何かを達成したりする事に病みつきになっているんだと思う。肉体を痛めつけたり、心が折れそうになる体験をした時に、何か、自分という存在を再認識できるきっかけを見いだせると思っているのかもしれない。そしてそんな状況下では、誰かに考えを変えられたり、あるいは助けられたり、その為に義理を感じて思考や行動を制限される事はナンセンスだから、ひとりでいる事が好きなのかなと思う。ようわからんけど。 今、諸々

インド、ラダック探訪記 その5: シャンティストゥーパ、レー王宮など

薄い空気に息を切らしながら坂道を登ると、荒涼とした、しかし美しいレーの町並みを見下ろせる高台に辿り着いた。 ここシャンティストゥーパはレーの外れにある丘陵にあるストゥーパで、日本人の仏僧によって建立されたらしい。 定期的にメンテナンスされているのだろう。殺風景な背景の中に鮮やかに塗りたくられたペンキの色が眩しい。 坂の下で待っているタクシーの運転手には悪いが、人気のない境内をゆっくりと歩いて回った。 僕以外には、旅行で来た裕福なインド人と思しき家族が一組いただけだ。 空気が薄いことに加え、風は強く、気温は低い。住環境としては決して良くない。それでも、耳を澄ますと、大工が電動ドリルを操る音、車が走る音、家畜が嘶く音、子供が叫ぶ音、様々な音が聞こえてくる。そこには確かに生活があり、人々の息遣いが聞こえてくるのだった。 "LAMDON"。遥か遠くの丘陵の斜面には何かの文字列が大きく描かれていた。後ほど確認してみると、どうやら現地の中学校の名前のようだった。 目に映る山々や建造物、その他諸々は、僕の興味を引くに十分だった。 山を越える、物資を運ぶ、上下水道を整備する、電線を張る、石を積む、木を組む、タルチョを渡す。 意味もなく、眼前の景色が完成するまでに重ねられた人々の苦労を思う。シャンティ・ストゥーパを作ろうと思い立った日本人の仏僧を思う。 その後、タクシーでナムギャル・ツェモ・ゴンパへ向かった。 歩いて登る事も出来るが、昼間の倦怠感を思い出すと今日は大人しく車を使ったほうが良いと思われた。 ナムギャル・ツェモ・ゴンパのある山を下り、旧レー王宮に向かう。 残念ながら、王宮の中に入ることは出来なかった。 チベットはラサのポタラ宮が作られた際このレーの王宮がモデルになったという事ということだが、確かに似ている。 建造されたのが16世紀だそうで、未だなお美しい姿をとどめているのは改修のお陰と思われる。 夕方旧市街に戻り、街にただひとつだけあるという酒屋でキングフィッシャーを瓶で買った。 宿に戻ると夕暮れが始まっている。 屋上に上がりその様子を見守っていると、宿の主人も部屋から出て来てたので、他愛もない話を少しだけした。 残念なが

インド、ラダック探訪記 その4: ジュレー

レーに着いたその日、軽度とはいえ初めての高山病にやや参りつつ、それでも僕はいくつか写真を撮っていた。少しでも多くの情報を外部記憶装置に残そうとするかのように、あるいはその光景を見ていた時の心情や気持ちのゆらぎを思い出すトリガーになってほしいと願いながら。 冬季は街なかのほとんどの観光客向けの店が閉まっているが、メインバザール沿いの店はいくつか営業していた。残念な事にインドのそこかしこで見かける土産物屋と大差がなく、高価なパシュミナが並んでいる。ラダックにおいてこのような店を経営するのはラダッキではなく、カシミールからやってきた人たちらしい。 僕を驚かせたのは、思いの外、冬季のレーがものに溢れ、そして車道が綺麗に舗装されていることだった。毎日停電に見舞われることの不便は後ほど思い知らされる事になるのだが、それにしても豊かだ。文明的な生活に必要なものはひと通り揃う。それもこれも、この地がインドにとって軍事的に重要な場所だからなのかもしれない。インド軍払い下げと思しき品々を売る店もいくつかある。 とは言え、やはり新鮮な肉や魚を扱う店を目にすること少なかった。基本的に町端で売られているのはそれなりに保存の効くものばかりだった。乾燥した冷たい空気の中にあって、売られている食べ物はどれも鮮やかに見える。 レーの街は賑やかだった。そして、季節外れの旅行者の来訪に比較的無関心だった。 お陰で僕は、気の向くままに往来を歩きまわり、のんびりとレーの人々の生活の一端を眺めることが出来た。 インドの見知った街のように、そこかしこにチャイ屋があるわけではない。歩き疲れ、どこで一休みしようか迷ってた時、チベット料理屋を見つけた。例に漏れず暖房なんて気の利いたものは無かったが、出てきたタントゥクはカレー風味に味付けされ、暖かかった。 人通りの少ない路地で焚き火を起こし暖を取る男達のそばを、ひとりの老婆が通りすぎようとしていた。 「ジュレー」 通りすがりに老婆が口にしたその言葉を聞いて、僕はハッとした。 ラダックに関するブログやガイドブックを読み漁り、何度も目にしていたラダッキたちの挨拶の言葉。その言葉を初めて音情報として認識し、得も言われぬ驚きが身体を突き抜けた。街を歩き回り、もやもやと

インド、ラダック探訪記 その3: レー到着

脈々と連なる山々が朝日に映える様が、機内の窓から確認出来た。ラダッキと思しき顔立ちの人々、インド人たち、そして袈裟を纏った仏僧たち。彼らの中に紛れてわずかばかり搭乗していた外国人旅行客は、僕も含め皆息を呑んだ。山々の起伏は勿論の事、その表面を覆う雪の結晶が放つ光のスペクトルすら粒さに見て取れるのではと錯覚してしまう。すれすれの所を飛んでいるような気がする。レーが近づくと、飛行機は旋回を繰り返した。 この日の早朝、僕は悪天候によるキャンセルがしょっちゅう起こるというフライトに乗るべく、予約していたタクシーで空港に向かい、搭乗ゲート前で時間を潰していた。 まどろみながら本を読んでいると、後ろから突然日本語が聞こえてきた。盗み聞きするつもりはないが嫌でも耳に入ってくるその会話内容から推測するに、声の主は決して旅行客ではない。果たしてこの季節にラダックに向かう旅行客以外の日本人がいるだろうかと驚いたが、会話の主がお子さんを連れている事でやがて察しがついた。ラダックの男性と結婚し、ラダックで旅行会社業を営まれている著名な女性だったのだ。(僕は以前からその方のブログを愛読していたので、図らずも気づいてしまった) 声こそかけなかったもののこの一方的な出会いに少しばかり感激し目が覚めた頃に、ちょうどボーディングゲートが開いた。無事、フライトは予定通り運行されるらしい。 デリーからレーへのフライトは1時間と少しだったと記憶している。 タラップを降りると辺りは曇っていて遠くの景色まで見えなかったが、自分が山間にいることだけはわかった。ひどく寒い。そして、確かに空気が薄い。 いそいそと空港の施設内に駆けこむも、屋内も寒かった。適当に運ばれてきたバックパックを確保した後、その辺にたむろしていたミニバンタクシーを捕まえ、旧市街まで向かった。あまりにも薄着の僕を見て、ドライバーは我が事のように悲鳴を上げたのだった。 この季節に営業している宿は数少ない。 レーで最も歴史の古いゲストハウスが旧市街の一角にあり、冬季でも頼めば泊めてくれるという噂を知っていた僕は、その親切な宿を目指した。 時刻は朝8時くらいだっただろうか。木製のドアを開き、人を呼んでみると老齢の主人が現れた。やはり今は営業期間ではないが、泊めてやらんことも無いという。ストーブの有無で一