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チュニジア - トズール

スースから南下し、アルジェリア国境が近いトズールにやってきた。サハラ砂漠が近いこの街は、至る所にナツメヤシが生えており、どこか砂っぽい如何にもオアシスと言った様相だ。 トズールに着いても、例の体調の悪さは収まらなかった。むしろ、発熱まで伴っていよいよ病状悪化である。それでも寝込んで1日が潰れるのは癪に障るので、何とか町をぶらついてシャッターを切る。フラフラでメモも取れず、記憶も不鮮明。よって今回の記事は写真のみ。 ▲中心部にある市場 ▲何の肉を売っているのかわかるように、動物の生首が店先に釣られている ▲ラクダの肉 ▲ラクダと牛 ▲地中海で捕れた魚だろうか ▲これはブリックだったかな…違う気もする ▲中心部の路地 ▲ファティマの手(魔除け) ------------ チュニジア - チュニスとシディ・ブ・サイド チュニジア - スース チュニジア - 道程

チュニジア - 道程

(メモより。一部改変。) 14時半に来ると言われたバスが来たのは結局その30分後だった。ローカルの旅行客達と共にターミナルで煙草をふかす。 腰を降ろした座席から通路を挟んで見える左側の窓。窓の前にはおばちゃんがでんと座っており、窓枠と、おばちゃんと、その奥には流れる景色。右手を見ると、視界を邪魔するものがなく、広く視界を確保できるんだけど、ついつい見やってしまうのは左側。視界が自由過ぎると疲れるのかもしれない、視界を制限される事が実は落ち着くのかもしれない。窓、或いは車窓が無条件に広いのは考えものだと思う。 左側の窓からは、オリーブの木々がさーっと移っていく景色。雑多に、無規則に生えているように見えるが、ずっと眺めていると、木々が手前から奥までピッと一直線に並ぶタイミングが定期的に訪れる事に気づく。実は規則性がある。反復する一直線。そのミニマルな様子に、これが畑なんだと気づく。 イヤホンを耳に挿してロングシーズンを聞く。西陽に赤く染められる、土が見える。 旅とは何かという問に、旅とは移動だって解を出した友人を思い出した。では移動とはなんだろう。おばちゃんと、窓枠に狭められた視界から望む景色を眺めて考える。そして思う。それは、木々の緑を、鉄塔と鉄塔の間隔を、地平線から此処までの距離を知覚すること。 キューバのバラデロからハバナに向かうバスの車窓から見た景色を、パキスタンのラホールからイスラマバードに向かうバスの車窓から見た景色を、メキシコのグァナファトから何処かに向かうバスの車窓から見た景色を、インドのムンバイからゴアに向かうバスの車窓から見た景色を、思い出すこと。 愛犬の死を、祖父の死を、祖母の死を、思い出すこと。 母が目を患った事を知った時の、自分の素っ気ない態度を思い出すこと。 チュニジアの道路は思っていたより丁寧に舗装されている。ここはハイウェイだ。休憩はあるのだろうか。 ------------ チュニジア - チュニスとシディ・ブ・サイド チュニジア - スース チュニジア - トズール

チュニジア - スース

チュニスから直線距離で100Km程度だろうか。南に下った地中海沿いにスースはある。南北に長い国土のチュニジアだが、そのほぼ北端に位置するチュニジアから徐々に南下するにあたって中継しようと思い立ち寄った町だ。 ▲夜のチュニス鉄道駅 ▲定刻通りに列車は出発 出発から約2時間でスースに到着した頃にはすっかり夜は更けていた。あまり英語の通じないタクシーを捕まえ、予め目星をつけておいた宿へと連れていってもらう。 ▲理容店 ▲スースのメディナへはファルハット・ハシェド広場から入る チュニジアに向かう飛行機の中で何となく体調が悪化する気配を感じていたのだが、スースについた頃には身体はだるく、思考は不明瞭でお腹もゆるいといった具合。すっかり風邪の様相だ。とは言え折角訪れた先で1日寝ているわけにもいくまいと心を奮い立たせ、出かけていったのであった。この旅人の殊勝な心がけも数日後には根負けすることになるのだが… ▲路上でモノを売るのには許可がいるのだろうか、警察がやってきた途端、洋服を並べていた連中は慌ててどこかに逃げていった スースは散策するには手頃なサイズの町だ。スース鉄道駅の脇にあるファルファット・ハシェド広場が中心部になっていて、その北へ行けばレストランや銀行、服屋や薬局が並ぶ新市街、南へ行けばメディナへ至ることが出来る。何はともあれメシだなと、新市街地をぶらついて目に止まったローカルレストランに入り、マトンと野菜の煮込み料理、それとローストチキンを食べた。腹が満たされたら銀行で米ドルをチュニジアンディナールに替え、恐らく唯一の見どころであるメディナへと向かう。 ▲ナツメヤシの実が干されている ▲メディナの街角 ▲色あせたチュニジアンブルーのドアと鍵 ▲こちらもメディナの街角 スースのメディナもご多分に漏れず高い城壁に囲まれ、その中には人々の住居や小さな商店が所狭しと並び、モスクを擁している。買い物客でごった返す賑やかな通りも小さな子供が遊んでいる人気の無い通りも生活感に溢れていて、こういう光景に触れることでようやくこの町の、ぬるりとした正体のようなものに触れた気持ちになれる。メディナの散策には必ず何かしらの発見があり、それがまた新たな好奇心を掻き立てて、更なる深部へと人を誘う気がする。 ▲メディナと新

チュニジア - チュニスとシディ・ブ・サイド

2016年の年末、僕はチュニジアに旅に出た。 なんだかんだで初めてのアフリカ大陸である。最初はタンザニアにでも行こうかと思っていたんだが、なぜこうなったかは経緯をよく覚えていない。 いつの間にか、青い地中海と沿岸の白壁、砂塵が顔面を容赦なく刺すサハラ砂漠、カルタゴだ、ジャスミン革命だと、とにかく気分はすっかりチュニジアになっていた。勿論、僕は天邪鬼なのでエジプトやモロッコはハナっから候補外だ。 ▲バビブ・ブルギバ通り沿いの大聖堂 チュニス・カルタゴ空港から市内へは10分そこらで着いてしまう。首都ながら、こじんまりとしたサイズ感の街である。人口も100万程度らしい。 ジャスミン革命を報道する記事等でよく見ていたのがバビブ・ブルギバ通りというチュニスきってのメインストリートだが、当時、国旗やプラカードを掲げ通りを埋め尽くしていた人々はどこかに消え、空間を持て余したその様相からはどこかもの寂しい印象さえ受けた。ただ、革命後ならではと思しき光景も所々に見て取れて、それは、ジャンベかなにかを打ち鳴らす人がふと現れ、その周りに徐々に人が集まり、熱気を帯びていく様であったり、そういった群衆が何かのキッカケで暴れ出さぬか警戒している何台ものパトカーと警官たちであった。 そういった群衆は時に数十人規模にまで膨れ上がり、集まった人々の輪の中心では踊りだす人たちも見受けられる。でもその衝動は、何かを強く訴え、物事を変えんとするような力に昇華することはなく、ただただ発散して1時間もすれば消えてしまう。まるで海底からぷくりと吹き出した水泡がふわふわと浮かび上がって水面で泡となり、ぱちりと割れて静かに大気に吸収されていくかのように。そんな様子を、通りに面した宿泊先のホテルの一室から見下ろしていた。 ▲メディナ(旧市街)の入り口となるビクトワール広場 チュニジアでは古くからある市街地の事を「メディナ」と呼ぶ。同じメディナで有名なのはモロッコのマラケシュのそれだが、一体北アフリカのどこからどこまでの地域でこのような呼称が使われているのかよくわからない。 チュニスのメディナの入り口はちょっとした広場になっていて、その淵にはパリを彷彿とさせるようなオープンテラスのカフェが並んでいる。人々はそこで新聞を読んだり、買い物帰りに一息ついたり、友だちと談笑をしていて、

インド - カニャークマリ(おまけ)

カニャークマリに何日滞在していたのか今となってははっきり思い出せないが、恐らく3、4泊程度だっただろう。 当時の南インド探訪においては比較的長めに滞在した町だった記憶がある。 そのカニャークマリに麻薬的に美味いビリヤニを出す食堂があって、今でも時折思い返しては懐かしくなる。 この頃は既に汁物だろうがご飯物だろうが、右手の指だけで特段のストレスもなく食べられるようになっていた。 この食堂の敷居を初めてまたいだ時もいつも通りローカルに習って食う心づもりでビリヤニをオーダーしたのだが、気を利かせた店員がスプーンを持ってきてくれてこんもり盛られたビリヤニの上からぶっ挿してくれた。そのイメージが何故か今も記憶に焼き付いている。 この店のビリヤニの美味さといったらなかった。共に旅をしていた友人と顔を見合わせ、思わず叫んだのだった。 初めて訪れてからというもの、昼飯は必ずこの店の大盛りのビリヤニになるのだった(他にもいくつかメニューがあったが、僕は脇目も振らずそればかり食っていた)。 もはやその店の名前を思い出すことはできないが、うっすらとその場所は思い出せる。 今でもGoogle mapでカニャークマリの町中にフォーカスしては、この食堂があったはずの辺りを愛おしく眺める事が時々ある。 インド - カニャークマリ(その1) インド - カニャークマリ(その2) インド - カニャークマリ(その3) インド - カニャークマリ(おまけ)

パキスタン - その3: カリマバード、ラホール

▲フンザの中心的な集落であるカリマバードをぶらついていた折に出会った地元の子 翌日早朝、再び例のポイントへと向かって見ると、彼の言うとおり水の流れが止まっており、僅かに車1台が通れるほどの隙間が片付けられていて、僕らはやっとカリマバードへたどり着くことが出来たった。 ▲バルティット・フォートとカリマバードの集落 カリマバードはかつてフンザ王国の藩主が住んでいた。未だにその住居であったバルティット・フォートは修繕を繰り返されながらも当時の姿を留めている。この城塞の歴史は(恐らく)15世紀から始まっておりかなり古い。王の住まいとして当時なりに堅牢で豪華に作られたとは言え、このフンザのあまりに厳しい自然環境の中においてはやや頼りなく見えなくもない。イギリス人達がこの地を訪れた時、この王の棲家を見てどう思ったろう。少なくとも、その国力に恐れおののくことは無かったんじゃないかな、と思ってしまう。冬の寒さを凌ぐために、一部屋辺りの面積を制限したんだと思うが、王や王女が踊り子を招き宴を開くのに使ったという部屋は、僕の住む家のリビングと大差ない広さに見えた。窓から見える渓谷と農村の風景はとびきり美しかったのだが。 ▲カリマバードの小道 登山家の故長谷川恒男氏の奥様が建てられたという学校があるという事で、ぶらりと立ち寄ってみた所、中を見学させてもらえた。それは僕らが日本人だからだったのかもしれない。施設はとても立派なもので、蔵書を眺めてみると英語で書かれた書籍が多く、ジャンルも幅広く取り揃えられている。パキスタンの平均的な僻地の学校と比べると大分恵まれているのではなかろうか(他を見たことがあるわけではないけど)。長谷川氏は、カリマバードからもその姿を拝むことが出来るウルタルのⅡ峰で雪崩にあって亡くなったそうだ。滞在中、何度も山の方を見やるのだが、常にガスっていて全体像を把握する事は結局出来なかった。 ▲レディースフィンガー 一方、いつか見てみたいと思っていたレディースフィンガーはしっかりと目に焼き付けることが出来た。この不気味なナイフのような山は、1995年に山野井泰史氏が独自のルートで登攀したそうだが、途中で食料が尽き果て、ラマダンのように痩せ細ってしまったという。冷たい垂壁に何日間も張り付き、岩雪崩に怯えながら空腹を耐え忍び、ジリジリとてっぺ