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トルコ - カッパドキアの記録

イスタンブールからカッパドキアへは飛行機を使った。バスだと12時間の道のりが1時間程度である。本当は移ろいゆく車窓の景色を眺めながらうつらうつらしたかったのだが、サラリーマンに時間は無い。(僕は経済的な自由を得た代わりに精神的な自由を失いつつあるのか…) ▲くり抜かれた奇岩 カッパドキアと呼ばれるエリアは広大で、そう呼ばれるエリアには町が3つほど点在している。最も有名なのはギョレメで、バックパッカーから団体旅行客まで幅広く受け入れるキャパシティを持った町である。今回の旅では混雑だとか喧騒だとかからなるべく距離を取りたかったので、ギョレメを避け、比較的静かなユルギュップという町で過ごすことにしたのであった。 ▲宿泊先の洞窟ホテル カッパドキアの宿といえば洞窟ホテルである。予約しておいた洞窟ホテルに着くと、オーナーである初老の男性が出迎えてくれた。宿は小洒落た佇まいで、オーナーが集めたと思しきアンティークの調度品がさり気なく飾られていたり、庭にはバラを始めとした花々が植えてあるだけでなく、隅っこに配置されたスピーカーから日中はさり気ない音量でクラシック音楽が流されていたりなどした。この男性は物静かだが、僕の滞在中に手配可能な気球ツアーがないか熱心に調べてくれたり(残念ながらどこの会社のツアーも予約でいっぱいだったが)、ワインを買ってきたのでツマミがほしいとワガママを言えば、自分が食べるものとして作り置いていたであろう料理をおすそ分けしてくれたり(ヴィーガンらしく、全く肉類がなかった)、旅人をもてなすホスピタリティに満ちた人であった。仕事の第一線を退き、余生を楽しみながら送るひとつの手段として、大好きなものを散りばめた秘密の箱庭のようなこのホテルを営んでいるのかもしれない、そんなストーリーをイメージせずにはいられなかった。 ▲初期キリスト教徒たちの住処 ▲奇岩群 ▲フレスコ画 宿についた翌朝、だだっ広いこの観光地を効率的に見て回るため、タクシーをチャーターした。溶岩と火山灰がミルフィーユのように積み上がって出来た地層を風雨が削り、硬い部分だけを残して出来上がった奇岩群は確かに面白い。だがそれよりも興味深いのは、その奇岩群をくり抜いて作られた住処や教会、その中に書かれた壁画である。古くは4世紀頃からこのカッパドキアには、キリスト教
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トルコ - イスタンブールの記録

2018年のGWはトルコにいた。 ▲トラムから眺める夜のスルタンアフメット・ジャーミィ インチョンを経由してイスタンブールへ。その後、カッパドキアはユルギュップへ滞在し、エーゲ海方面へ向かいベルガマという町でのんびりとした時間を楽しみ、再びイスタンブールに戻って帰るという旅程である。最近なんだかシルクロード周辺の各種文化の変遷に興味津々な自分としては、東の端から西の端まで見て回りたかったが、一応昨今の情勢に配慮して東側に近寄るのは今回は避けたのであった。 ▲金角湾にまたがるガラタ橋とガラタ塔 映画鑑賞に飽きるには十分に長いフライトだったが、それでも思っていたよりずっと早く到着できた初日。チェックインを済ます頃にはすっかり夜も更けてるだろうと想定していたが、この国の夜の帳が下りるスピードの遅さも手伝って、外はまだまだ明るかった。 イスタンブールである。世界で唯一、アジアとヨーロッパを分かつボスポラス海峡に跨る街だ。そして僕はその西側に降り立ち、生まれて初めてヨーロッパの地を踏んでいた。いつの間にか筆おろしが済んでしまい、母なるアジアに別れを告げるヒマも無ければ感慨もない。それでも、金角湾をたゆたうクラゲたち、そしてドッドッドッドッと力強くエンジンを鳴らしながら桟橋に寄せては客を対岸に運んでいく船たち(それはもう頻繁に接岸してはどこかへ消えていく)、そして小高く盛り上がる丘に立つ尖塔を眺めていると、ここは確かにこれまで僕が旅してきた場所とは違うかもしれないと感じていた。ヨーロッパのヨーロッパ的な風情、それが何なのかはよく知らないが、テレビや映画から感じることの多い何かが、気配として確かに存在する。 そのことに気づいた僕は何だか嬉しくなってしまって、ウキウキとした気分でガラタ橋を東側へ渡ろうと試みた。ガイドブックに書いていたとおり2階建ての跳ね橋で、1階にはレストランが並んでいる。2階は車とトラムの為の車道と歩道に使われているのだが、歩道を埋め尽くす釣り人の姿はなかなか見応えがある。柔らかな夕陽を浴びながら、思い思いに釣り針と仕掛けを投げ入れてはあっという間に小さな鯖?か鯵?を釣り上げている。今晩の食卓を彩るのだろうな、或いはこの数だったら、塩や酢で手を加えて保存的な食材とするのかもしれないな、なんて事を思いながら彼らの様子を見守る。皆とても

チュニジア - トズール

スースから南下し、アルジェリア国境が近いトズールにやってきた。サハラ砂漠が近いこの街は、至る所にナツメヤシが生えており、どこか砂っぽい如何にもオアシスと言った様相だ。 トズールに着いても、例の体調の悪さは収まらなかった。むしろ、発熱まで伴っていよいよ病状悪化である。それでも寝込んで1日が潰れるのは癪に障るので、何とか町をぶらついてシャッターを切る。フラフラでメモも取れず、記憶も不鮮明。よって今回の記事は写真のみ。 ▲中心部にある市場 ▲何の肉を売っているのかわかるように、動物の生首が店先に釣られている ▲ラクダの肉 ▲ラクダと牛 ▲地中海で捕れた魚だろうか ▲これはブリックだったかな…違う気もする ▲中心部の路地 ▲ファティマの手(魔除け) ------------ チュニジア - チュニスとシディ・ブ・サイド チュニジア - スース チュニジア - 道程

チュニジア - 道程

(メモより。一部改変。) 14時半に来ると言われたバスが来たのは結局その30分後だった。ローカルの旅行客達と共にターミナルで煙草をふかす。 腰を降ろした座席から通路を挟んで見える左側の窓。窓の前にはおばちゃんがでんと座っており、窓枠と、おばちゃんと、その奥には流れる景色。右手を見ると、視界を邪魔するものがなく、広く視界を確保できるんだけど、ついつい見やってしまうのは左側。視界が自由過ぎると疲れるのかもしれない、視界を制限される事が実は落ち着くのかもしれない。窓、或いは車窓が無条件に広いのは考えものだと思う。 左側の窓からは、オリーブの木々がさーっと移っていく景色。雑多に、無規則に生えているように見えるが、ずっと眺めていると、木々が手前から奥までピッと一直線に並ぶタイミングが定期的に訪れる事に気づく。実は規則性がある。反復する一直線。そのミニマルな様子に、これが畑なんだと気づく。 イヤホンを耳に挿してロングシーズンを聞く。西陽に赤く染められる、土が見える。 旅とは何かという問に、旅とは移動だって解を出した友人を思い出した。では移動とはなんだろう。おばちゃんと、窓枠に狭められた視界から望む景色を眺めて考える。そして思う。それは、木々の緑を、鉄塔と鉄塔の間隔を、地平線から此処までの距離を知覚すること。 キューバのバラデロからハバナに向かうバスの車窓から見た景色を、パキスタンのラホールからイスラマバードに向かうバスの車窓から見た景色を、メキシコのグァナファトから何処かに向かうバスの車窓から見た景色を、インドのムンバイからゴアに向かうバスの車窓から見た景色を、思い出すこと。 愛犬の死を、祖父の死を、祖母の死を、思い出すこと。 母が目を患った事を知った時の、自分の素っ気ない態度を思い出すこと。 チュニジアの道路は思っていたより丁寧に舗装されている。ここはハイウェイだ。休憩はあるのだろうか。 ------------ チュニジア - チュニスとシディ・ブ・サイド チュニジア - スース チュニジア - トズール

チュニジア - スース

チュニスから直線距離で100Km程度だろうか。南に下った地中海沿いにスースはある。南北に長い国土のチュニジアだが、そのほぼ北端に位置するチュニジアから徐々に南下するにあたって中継しようと思い立ち寄った町だ。 ▲夜のチュニス鉄道駅 ▲定刻通りに列車は出発 出発から約2時間でスースに到着した頃にはすっかり夜は更けていた。あまり英語の通じないタクシーを捕まえ、予め目星をつけておいた宿へと連れていってもらう。 ▲理容店 ▲スースのメディナへはファルハット・ハシェド広場から入る チュニジアに向かう飛行機の中で何となく体調が悪化する気配を感じていたのだが、スースについた頃には身体はだるく、思考は不明瞭でお腹もゆるいといった具合。すっかり風邪の様相だ。とは言え折角訪れた先で1日寝ているわけにもいくまいと心を奮い立たせ、出かけていったのであった。この旅人の殊勝な心がけも数日後には根負けすることになるのだが… ▲路上でモノを売るのには許可がいるのだろうか、警察がやってきた途端、洋服を並べていた連中は慌ててどこかに逃げていった スースは散策するには手頃なサイズの町だ。スース鉄道駅の脇にあるファルファット・ハシェド広場が中心部になっていて、その北へ行けばレストランや銀行、服屋や薬局が並ぶ新市街、南へ行けばメディナへ至ることが出来る。何はともあれメシだなと、新市街地をぶらついて目に止まったローカルレストランに入り、マトンと野菜の煮込み料理、それとローストチキンを食べた。腹が満たされたら銀行で米ドルをチュニジアンディナールに替え、恐らく唯一の見どころであるメディナへと向かう。 ▲ナツメヤシの実が干されている ▲メディナの街角 ▲色あせたチュニジアンブルーのドアと鍵 ▲こちらもメディナの街角 スースのメディナもご多分に漏れず高い城壁に囲まれ、その中には人々の住居や小さな商店が所狭しと並び、モスクを擁している。買い物客でごった返す賑やかな通りも小さな子供が遊んでいる人気の無い通りも生活感に溢れていて、こういう光景に触れることでようやくこの町の、ぬるりとした正体のようなものに触れた気持ちになれる。メディナの散策には必ず何かしらの発見があり、それがまた新たな好奇心を掻き立てて、更なる深部へと人を誘う気がする。 ▲メディナと新

チュニジア - チュニスとシディ・ブ・サイド

2016年の年末、僕はチュニジアに旅に出た。 なんだかんだで初めてのアフリカ大陸である。最初はタンザニアにでも行こうかと思っていたんだが、なぜこうなったかは経緯をよく覚えていない。 いつの間にか、青い地中海と沿岸の白壁、砂塵が顔面を容赦なく刺すサハラ砂漠、カルタゴだ、ジャスミン革命だと、とにかく気分はすっかりチュニジアになっていた。勿論、僕は天邪鬼なのでエジプトやモロッコはハナっから候補外だ。 ▲バビブ・ブルギバ通り沿いの大聖堂 チュニス・カルタゴ空港から市内へは10分そこらで着いてしまう。首都ながら、こじんまりとしたサイズ感の街である。人口も100万程度らしい。 ジャスミン革命を報道する記事等でよく見ていたのがバビブ・ブルギバ通りというチュニスきってのメインストリートだが、当時、国旗やプラカードを掲げ通りを埋め尽くしていた人々はどこかに消え、空間を持て余したその様相からはどこかもの寂しい印象さえ受けた。ただ、革命後ならではと思しき光景も所々に見て取れて、それは、ジャンベかなにかを打ち鳴らす人がふと現れ、その周りに徐々に人が集まり、熱気を帯びていく様であったり、そういった群衆が何かのキッカケで暴れ出さぬか警戒している何台ものパトカーと警官たちであった。 そういった群衆は時に数十人規模にまで膨れ上がり、集まった人々の輪の中心では踊りだす人たちも見受けられる。でもその衝動は、何かを強く訴え、物事を変えんとするような力に昇華することはなく、ただただ発散して1時間もすれば消えてしまう。まるで海底からぷくりと吹き出した水泡がふわふわと浮かび上がって水面で泡となり、ぱちりと割れて静かに大気に吸収されていくかのように。そんな様子を、通りに面した宿泊先のホテルの一室から見下ろしていた。 ▲メディナ(旧市街)の入り口となるビクトワール広場 チュニジアでは古くからある市街地の事を「メディナ」と呼ぶ。同じメディナで有名なのはモロッコのマラケシュのそれだが、一体北アフリカのどこからどこまでの地域でこのような呼称が使われているのかよくわからない。 チュニスのメディナの入り口はちょっとした広場になっていて、その淵にはパリを彷彿とさせるようなオープンテラスのカフェが並んでいる。人々はそこで新聞を読んだり、買い物帰りに一息ついたり、友だちと談笑をしていて、