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マレー半島を北上せよ − その1:旅の準備など

「バンコクからシンガポールまでは鉄道で繋がっている」 その事実を知ったのはいつの頃だったろうか。旅先で知り合った誰かに聞かされた記憶がある。 ねっとりと湿った熱帯の空気の中をがたんごとんと南下する列車。 その車窓から見えるのは、タイ南部のちいさな田舎町の牧歌的な町並みや、プーケットだかパンガンだかしらないがとにかくその辺の海がキラキラとはねっ返す眩しい陽光。そして、マレーシアの鬱蒼と茂るジャングルの中に所々現れる広大なゴム園の数々。移動に飽きたら適当な駅で降りて安いゲストハウスに投宿し、汗をかきかきぬるいビールをしこたま啜る。そして夜になればぐるぐると回るファンを見つめながらひとり静かに眠りにつくのだ…。 その鉄道の存在を知った次の瞬間には、そんな旅の様相を思い描いていた。なんと魅力的なんだろう。 それぞれの国境を陸路で、しかも列車で越えるという行為にも、とんでもない禁忌を敢えて犯す背徳のような甘美さを感じた。 いつかその鉄道に乗ってやる、そう決めた。 それから何年経ったかは定かでない。 とにかく大分ほったらかしにしていた小さな野望だったが、今年の冬は少し長く休みを取れるようだと知った時にふと思い出したのであった。 ---- ということでこの年末年始、念願のマレー鉄道に乗ってみることにしました。 思い立ったのが遅かった事もあり、シンガポールIN−バンコクOUTの旅程でしか安い航空券を抑えられず、いつか思い描いた南下ルートとは逆の、シンガポールから北上するルートになりました。 ※ 青い目印は主な予定経由地。 この記事では、今回の旅行に際して利用した便利なサイトを備忘録を兼ねてざっとまとめておきます。 ---- 1. 航空券の手配 ▼ skyscanner(スカイスキャナー) 数ある航空券比較サイトの中でも抜群に使い勝手が良い。 一般的な航空会社の定期便、格安航空券はもちろん、LCCのチケットも検索対象に含まれているのが有難い。イギリスとシンガポールにオフィスを置く会社のようだが、多言語対応(もちろん日本語も)もバッチリ。サイトのデザインも頭ひとつ抜けている感がある。今回はスカイスキャナーを通じ、行きはscoot、帰りは中国東方航空のチケットを抑えた。 2. 鉄道のチケットの手配 旅程を細かく

ミャンマー(その15) - バックビートにのっかって

豪奢とかいうレベルじゃない。理解不能な宇宙観を前に、僕らはただゲラゲラ笑うしかなかった。 バガンからヤンゴンに戻ってきた僕らは、シュエダゴン・パゴダへと向かった。時刻は8時を回った頃だった。日中、灼熱のバガンを歩きまわっていた僕らはそれなりに疲れていたはずだったが、ミャンマー観光をこの国の最大の聖地であるパゴダで締めくくるべくタクシーを飛ばした。 国内外から毎日多くの仏教徒が参拝するこのパゴダはとにかくデカい。ちょっとした丘の上を占有している境内へはなんとエレベーターで向かったのだった。 この仏塔に貼り付けられた金箔の数は8600枚以上で、先端に備え付けられた76カラットの馬鹿でかいダイヤモンドを始め、総計5451個のダイヤモンドと1383個のルビーなど各種宝石でこれでもかと言わんばかりに装飾されている。どういう神経があればそういうチョイスができるのか甚だ謎だが、極めつけに設置されたのはこれまた馬鹿みたいな量のLEDである。照明の光を反射する黄金の輝きとは別に、妙にテクノな赤や緑、青色の光線がビカビカと存在を主張している。 このパゴダには、遥か2500年以上前に仏陀の整髪が奉納されたらしい。それ以来、国中からありったけの信仰心をかき集めてその整髪に塗りたくり続けた結果このような形状になったようだ。 あまりに強烈な光景に当てられ、くらくらと目が回る感覚を覚える。異様な建造物に向かって真剣な眼差しで祈りを捧げる教徒もまた同様に異様であり、リアリティはどんどん希薄になっていく。 聖水をたたえられた仏足石はそれだけで有難いものなんだろうが、その水面にはなんと仏陀の尊顔が映ってさえいる。 恐らく仏陀の身体から放たれる光輪を表現しているのだろうが、LEDの光はどう考えてもミスチョイスである。この人達はふざけているのだろうかとすら思ったが、集まった仏教徒が祈る顔つきはやはり真剣である。笑ってはいけない。 「CRゴータマ・シッダールタだね」 先輩のその一言が僕らにとってのシュエダゴン・パゴダを全て形容していた。 シュエダゴン・パゴダを後にした僕らは宿を探した。時刻は既に10時を回っていたと思う。急速に開国しつつあるこの国においては、宿の数が旅行客の数に対してまだまだ追いついていない。空き部屋探しは難航した。 どの宿

ミャンマー(その14) - それはただの気分さ

僕らは宿へ帰る道すがら、その日の午後のフライトの時刻まで改めてタクシーをチャーターすることに決めた。 宿に帰った時刻は8時頃だっただろうか。準備もあるので11時に改めて宿に迎えに来てほしいと伝え、ドライバーと一旦別れた。 再びベッドに潜り込んで浅い眠りを楽しんだりしている間に11時になり、約束の時刻より5分ほど早く、彼は彼の弟を連れてやってきた。どうやらこの日のドライバーは弟が担当するらしい。のそのそと荷物をまとめ宿をチェックアウトする。 二日酔いの僕らは力なく、前日とは打って変わってとても無口な若い男が運転するハイエースに乗り込んだ。彼の歳は僕らとそう離れていないように見える。時折見せる笑顔に、噛み煙草のやりすぎて真っ赤に染まった歯が映えるのが印象的だった。 彼は、僕らをまずエーヤワディー川のほとりに連れていってくれた。眼前にあるのは、ただただたゆたう泥色の大河だけだ。その様は特段面白いものでもなかったが、倦怠感の塊のようになって思考の停止した僕らにとっては優しい光景だった。 何本かの煙草をぷかぷかとふかし、中身の無い会話を交わす。僕らの口から出た意味のない言葉はすべて、僕らを取り囲む緩慢であたたかい空気に吸い込まれていく。やがて、昼飯を食える程度には腹が空いてきたことに気づいたのであった。 ドライバーが連れてきてくれた通りには、外国人旅行客向けのレストランがいくつか軒を連ねていた。 何も考えずにその中のひとつを選び、着席してメニューを眺めて僕らは愕然とした。どうやらベジタリアン専用のレストランに入ってしまったらしい。店を選びなおすことも考えたが、接客に出てきたオーナーとその妻と思しき女性の嬉しそうな笑顔を見ているとどうも席を立ちづらい。仕方なくその時だけは菜食に徹することにした。 腹が満たされしばらくすると、徐々に二日酔いも回復してきた。 その後僕らが向かったダマヤンヂーという寺院は、王位継承のために父王と兄王子を殺めた男が、罪滅ぼしのために建て始めたという寺院である。当時最も大きく、凝った細工が施された寺院が出来上がるはずだったが、その親殺しの王も何者かに暗殺され、未完のまま今日を迎えているというなんとも暗鬱なエピソードを持っている。 「ジャパン?」 挨拶代わりに国籍を聞いてくるのはアジア圏のど

ミャンマー(その13) - アイ・ダブ・フィシュ

そしてまた僕らは馬鹿みたいに飲んでいた。 オールドバガンから戻った僕らは、宿で一休みしてその日の晩飯にありつくためにガイドブックを舐めまわし、ビールが飲めてWi-Fiが飛んでいると書かれていた一件の観光客向けのレストランに狙いを定めた。 先輩の人生観もしくは結婚観的な話に耳を傾けつつ、しこたまミャンマービールを煽る。晩飯を兼ねて頼んだツマミはすべて中華風に味付けされた炒め物だった。 ビールに飽きて例のゴールデンなんとかというウイスキーを水と氷で割ってやり始めた頃だったか、隣の卓で同じく酩酊していたミャンマー人の一行に話しかけられた。 3人で飲んでいた彼らのうち一人は圧倒的に綺麗な英語を喋るおっさんで、聞く所によると外交官の子息として日本をはじめ諸外国に何年も住んだことのあるような人らしかった。 彼の政治経済についての考え方は、この東南アジア最貧国ランキングの1、2番目を争う国の片田舎で出会う人間とは思えないほど洗練されており、話の随所に教養の片鱗が見て取れた。また、多くのミャンマー人がそうであるように、彼も親日的な考えの持ち主であるらしく、最近何かと話題に上るお隣の国々に対して悪態をついていた。 当然、彼の興味は、当事者である我々日本人が諸々の国々との関係についてどう考えているのかというところに及ぶ。本当に情けない話だが、僕のあまりに貧しい英語力では自分の考えを1ミリも伝えることができず、せっかく親しげに話題を提供してくれた彼の期待に応えることはできなかった。 せめてものお返しにと、ミャンマー、あるいはビルマの軍政について彼の考えを聞いてみると、彼は素晴らしい英語で淀みなく、朗々と持論を披露してくれた。これから大きく経済発展を遂げるミャンマーにおいて教育の拡充は喫緊の課題であるらしく、それはようやく軍政が収縮した今のミャンマーだからこそ解決可能な課題であるというような話をしていた。気がする。 ベロンベロンに酔っ払った僕らは彼らと別れを告げ、既に日付が変わっているにも関わらず営業を続けていた殊勝な商店に立ち寄り、マンダレービール(恐らくアルコール濃度の高いバージョン)の大瓶とミャンマービールの缶をそれぞれ3本ずつ買い、瓶をラッパ飲みしながら涼しくなった夜道をふらふらと帰った。 宿の戸はもちろん閉ざされていたが、びゃーびゃー

ミャンマー(その12) - ゆらめき・イン・ジ・エアー

夕陽を見るのにピッタリとされているシュエサンド・パヤーの急角度な側面を、息を切らしながら登った。見渡すかぎり一面に広がる遺跡群が西日に照らされている。一千年前のバガン朝の人々も同じような景色を目にしていたのだろうか。 多くの外国人観光客がカメラを構えている。このひと時だけ、全ての人々はカメラマンになっていた。 エーヤワディー川の彼方に静かに夕陽が沈んでいく。ちょうどこの時、その川面から水蒸気がゆらゆらと立ち上り、背後に連なる山々の姿が霞んでいった。あまりにタイミングの良いこの幻想的な演出は、まるでもともと仕組まれていたものかの様だった。 夕陽がとぷんと沈むと、他の外国人たちは満足げな面持ちで次々とパゴダを降りていった。彼らは夕陽そのものと、夕陽が直接的に照らすバガンの大地にしか興味がないのだろう。 地平線の下から届く光に焼かれていく空こそが美しく、黄昏時こそがセンチメンタルな旅情を掻き立てるものであるはずだが、彼らとはその感覚を共有できないのだろうか。 これを日本人と欧米人の美的感覚の差異と片付けて良いのかどうかはわからないが、とにかく僕らを残して他の観光客は綺麗にいなくなってしまった。 ぽつんと巨大なパゴダに取り残された僕らは、死にゆく病人の最期を看取るかのように静かに空を見守っていた。 辺りはしんと静まりかえり、鳥の鳴き声さえ聞こえなかった。 やがて、いくつかのパゴダがライトで照らされ始める。(夜にこのオールドバガンをうろつく観光客などいないように思われるが) 静寂の中のトワイライトを堪能した僕らは、闇に沈んだパゴダをそろそろと降りた。 下ではドライバーが相変わらずにこやかに僕らを待ってくれていた。他の観光客が早々に帰路に着く中、だらだらと居座り続けた僕らを待つ間はさぞ退屈であったろう。 「待たせてしまって申し訳ない」という謝罪を「ノーノー!」と遮るように返す彼は、最後までホスピタリティ溢れる奴だった。 彼の運転するハイエースでニャウンウーに帰る道すがら、僕は心地よい疲れを感じていた。 ================== ミャンマー旅行記 ミャンマー(その1) - ウォーキング・イン・ザ・リズム ミャンマー(その2) - ずっ

ミャンマー(その11) - エヴリデイ・エヴリナイト

その後、僕らは遺跡を巡り続けた。 11世紀から13世紀まで都として栄えていた当時、バガンには今よりもっと多くの仏教建築物があったのだろう。バガン朝を滅ぼしたモンゴル人たちは、集落からの略奪はせどこれら建築物の破壊はしなかったのだろうか。 当時のモンゴル人たちがチベット仏教を信仰していたのだとしたら、宗旨は違えど同じ仏教のシンボルを壊すことに抵抗があったのかもしれないが、そのあたりは知識不足でよくわからない。 このマハーボディー・パヤーはバガンでも珍しいインド風の様式のパヤー(パゴダ)とのことだった。言われてみると確かに、どこかで見たことのある形である気がしないでもない。僕は、南インドのトリヴァンドラムを訪れた際に見に行ったパドマナーバスワーミ寺院を思い出していた。 「かわいい」と先輩が褒めたよくわからない像は、建てられた意図も何をモチーフにしているのかも一切わからなかった。かわいくないことだけは確かだった。 エーヤワディー川の岸に立つ修復中の球根型のパゴダの下で、僕らはひとりの日本人と出会った。 話を聞くと、彼女は就活前のモラトリアム期間を謳歌すべく、夏の終わりから一人で旅をしている大学生とのことであった。日本からヤンゴンに飛び、そこからバガンまで来たところだという。音もなく流れるエーヤワディー川を夕暮れ時にひとりでぼんやり眺めて過ごすだなんて、なんと正しい学生の姿だろうか。彼女はこれからエーヤワディー川を船で10時間ほどかけて上り、マンダレーへ向かうらしい。 西日の反射するエーヤワディー川を背景に僕らは記念写真を撮った。連絡先も名前も聞いていないので、彼女がこの写真を手にすることは恐らくないのだろうなあなどと思いながら別れを告げた。 西日はいよいよその傾きを増し、日没が近いことを僕らに教えてくれた。ドライバーはその日の締めくくりにと、夕日を見るのにピッタリのパゴダまで連れていってくれた。 僕らと同じように、一日の終りにとっておきの贅沢をしようと多くの外国人がそのパゴダに向かっている。広々としたオールドバガンの四方八方から、ある者は自転車で、ある者は馬車で、またあるものは車でひとつのパゴダへ急ぐ。土埃を舞い上げて進む彼らや僕らの姿はどこか必死で、滑稽でおかしかった。 いつの間に

ミャンマー(その10) - 100ミリちょっとの

パゴダの中には大抵仏像が安置されている。それぞれのブッタは微妙に表情を変えていたが、どれも凛々しくもなければ穏やかでもない。そのひとつひとつを僕らは「ほー」だの「へー」だの言いながら眺めて回った。 いくつのパゴダを回ったのか定かでないが、とにかく数えきれない仏塔を見てはその度に感嘆し、時折、カラカラに乾いた喉を水やジュースで潤した。 先輩の飲んでいたレッドブルは甘ったるく、炭酸が抜けていた。あるいは炭酸など最初から入っていなかったのかもしれない。 そうして僕らは、尖塔を鱗のように装飾されたバガンで最も有名であろうアーナンダ寺院へとたどり着いた。 寺院の東西南北の四方にはそれぞれ高さ10m程度の4体の仏像が安置されている。恐らくバガンで最も美しく装飾されているであろうブッダの像は、やはり不可解な表情を浮かべていた。 これらの像に向かい、幾人かのミャンマー人が跪く姿が見えた。このパゴダも、外国人観光客にとっては単なる観光の対象の遺跡でしかない一方、現地の人々にとってはいまだに静かに祈りを捧げる現役の寺院なのであった。 あまりに多くの人々が金箔を塗りたくるので、その表情が原型を留めていないブッダもいる。 ひと通り寺院の中を見学した後、僕らは誰ともなしに外に広がるテラスのような場所に向かった。日のあたっている石畳は相変わらず焼けるように熱いが、木陰になっている場所はひんやりと冷たくて気持ちが良い。 木の下に寝転がり、空を仰ぐ。枝々の間から覗く空はアホかと思うほど青かった。ふと、この痛快な面々がひょんな事からこんな辺鄙な地で一同に会している事実が面白くてしかたなくなって、堪らず笑ってしまった。なんと素敵な休日だろう。 しばらくその場で、思い思いの格好でごろごろしていた僕らは、また誰ともなしに空腹を訴えるようになった。 そういえばパゴダの外ではドライバーを待たせている。本人の考えているであろう観光スケジュールなどお構いなしに好き勝手やっている日本人の帰りが遅いことに、彼はさぞやきもきしているであろう。少し申し訳ない気持ちがした僕らは、やや急ぎ足で彼の待つハイエースに戻ったが、彼はまったく気にしていない様子で、出会った時と同じニコニコ顔を湛えていた。 思い切って彼に腹が

ミャンマー(その9) - ロング・シーズン

遺跡群に向かう前に、ドライバーは小さな仏僧たちの学校のような所に連れて行ってくれた。 ちょうど昼飯時だったようで、幼稚園児から小学校低学年くらいのちび仏僧たちがもりもりと飯を食っている。その光景を写真に収めろと彼は言う。いかにも外国人観光客が好みそうな絵なので善意で薦めてくれていたのだろうが、飯を食ってるところにどでかいレンズを向けられて良い気持ちのする奴はいない。おまけに彼らは、自分たちが外国人たちの好奇の目に晒されている事に気づいていながら、一切の抵抗もしなければ、金をせびってくることもない。シャッターを切るのはなかなか気の引けることだった。 ガンジス川ではくそったれ似非サドゥーが自ら進んで被写体になり、寄付をよこせなどとアホみたいなこと言ってくる。アレッピーのチャイニーズ・フィッシング・ネットを使った釣りの様子を見に行けば、見物料を請求される。サパの少数民族が家々をホームステイ先として開放しているのなんて立派なビジネスだ。 君たちは何だ。僕らの存在に気づいてチラッと目を向けはするものの、レンゲを口に運ぶ仕草を止めようとさえしない。 彼らの食事風景を眺めていると先生と思しき大人の仏僧が現れ、僕らのほうに近づいてきた。きっと怒られるんだ。そう直感して身構えつつも、この無抵抗ながきんちょたちを守る人間がいるという事実にホッとした。ところが僕らは怒られなかった。その代わり、その仏僧は僕らに、日本人の寄付によって植えられた小さな苗木を見せてくれた。そうじゃないだろう。君たちは何なんだ。たいそう居心地が悪くなった僕らはすぐその場を離れた。ドライバーは不思議そうな顔をしていた。 しばらくハイエースに揺られた僕らはようやくオールドバガンと呼ばれる、遺跡群が広がる広大なエリアに到着した。車の中では散々馬鹿な冗談ばかり言っていた気がする。 オールドバガンのパゴダの大抵が赤レンガで作られたものであり、数百年の時を経てなおその形を留めている。 各パゴダの立つ敷地内では履物を脱がなければならない。仏塔の中に入ることができるものもあれば、その外壁を登ることができるものもある。 オールドバガンに着いてすぐに連れてこられた小さなパゴダは登るにはちょうどよさそうな高さだった。レンガの上は1分と立っていられ