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11月, 2012の投稿を表示しています

ミャンマー(その13) - アイ・ダブ・フィシュ

そしてまた僕らは馬鹿みたいに飲んでいた。 オールドバガンから戻った僕らは、宿で一休みしてその日の晩飯にありつくためにガイドブックを舐めまわし、ビールが飲めてWi-Fiが飛んでいると書かれていた一件の観光客向けのレストランに狙いを定めた。 先輩の人生観もしくは結婚観的な話に耳を傾けつつ、しこたまミャンマービールを煽る。晩飯を兼ねて頼んだツマミはすべて中華風に味付けされた炒め物だった。 ビールに飽きて例のゴールデンなんとかというウイスキーを水と氷で割ってやり始めた頃だったか、隣の卓で同じく酩酊していたミャンマー人の一行に話しかけられた。 3人で飲んでいた彼らのうち一人は圧倒的に綺麗な英語を喋るおっさんで、聞く所によると外交官の子息として日本をはじめ諸外国に何年も住んだことのあるような人らしかった。 彼の政治経済についての考え方は、この東南アジア最貧国ランキングの1、2番目を争う国の片田舎で出会う人間とは思えないほど洗練されており、話の随所に教養の片鱗が見て取れた。また、多くのミャンマー人がそうであるように、彼も親日的な考えの持ち主であるらしく、最近何かと話題に上るお隣の国々に対して悪態をついていた。 当然、彼の興味は、当事者である我々日本人が諸々の国々との関係についてどう考えているのかというところに及ぶ。本当に情けない話だが、僕のあまりに貧しい英語力では自分の考えを1ミリも伝えることができず、せっかく親しげに話題を提供してくれた彼の期待に応えることはできなかった。 せめてものお返しにと、ミャンマー、あるいはビルマの軍政について彼の考えを聞いてみると、彼は素晴らしい英語で淀みなく、朗々と持論を披露してくれた。これから大きく経済発展を遂げるミャンマーにおいて教育の拡充は喫緊の課題であるらしく、それはようやく軍政が収縮した今のミャンマーだからこそ解決可能な課題であるというような話をしていた。気がする。 ベロンベロンに酔っ払った僕らは彼らと別れを告げ、既に日付が変わっているにも関わらず営業を続けていた殊勝な商店に立ち寄り、マンダレービール(恐らくアルコール濃度の高いバージョン)の大瓶とミャンマービールの缶をそれぞれ3本ずつ買い、瓶をラッパ飲みしながら涼しくなった夜道をふらふらと帰った。 宿の戸はもちろん閉ざされていたが、びゃーびゃー

ミャンマー(その12) - ゆらめき・イン・ジ・エアー

夕陽を見るのにピッタリとされているシュエサンド・パヤーの急角度な側面を、息を切らしながら登った。見渡すかぎり一面に広がる遺跡群が西日に照らされている。一千年前のバガン朝の人々も同じような景色を目にしていたのだろうか。 多くの外国人観光客がカメラを構えている。このひと時だけ、全ての人々はカメラマンになっていた。 エーヤワディー川の彼方に静かに夕陽が沈んでいく。ちょうどこの時、その川面から水蒸気がゆらゆらと立ち上り、背後に連なる山々の姿が霞んでいった。あまりにタイミングの良いこの幻想的な演出は、まるでもともと仕組まれていたものかの様だった。 夕陽がとぷんと沈むと、他の外国人たちは満足げな面持ちで次々とパゴダを降りていった。彼らは夕陽そのものと、夕陽が直接的に照らすバガンの大地にしか興味がないのだろう。 地平線の下から届く光に焼かれていく空こそが美しく、黄昏時こそがセンチメンタルな旅情を掻き立てるものであるはずだが、彼らとはその感覚を共有できないのだろうか。 これを日本人と欧米人の美的感覚の差異と片付けて良いのかどうかはわからないが、とにかく僕らを残して他の観光客は綺麗にいなくなってしまった。 ぽつんと巨大なパゴダに取り残された僕らは、死にゆく病人の最期を看取るかのように静かに空を見守っていた。 辺りはしんと静まりかえり、鳥の鳴き声さえ聞こえなかった。 やがて、いくつかのパゴダがライトで照らされ始める。(夜にこのオールドバガンをうろつく観光客などいないように思われるが) 静寂の中のトワイライトを堪能した僕らは、闇に沈んだパゴダをそろそろと降りた。 下ではドライバーが相変わらずにこやかに僕らを待ってくれていた。他の観光客が早々に帰路に着く中、だらだらと居座り続けた僕らを待つ間はさぞ退屈であったろう。 「待たせてしまって申し訳ない」という謝罪を「ノーノー!」と遮るように返す彼は、最後までホスピタリティ溢れる奴だった。 彼の運転するハイエースでニャウンウーに帰る道すがら、僕は心地よい疲れを感じていた。 ================== ミャンマー旅行記 ミャンマー(その1) - ウォーキング・イン・ザ・リズム ミャンマー(その2) - ずっ

ミャンマー(その11) - エヴリデイ・エヴリナイト

その後、僕らは遺跡を巡り続けた。 11世紀から13世紀まで都として栄えていた当時、バガンには今よりもっと多くの仏教建築物があったのだろう。バガン朝を滅ぼしたモンゴル人たちは、集落からの略奪はせどこれら建築物の破壊はしなかったのだろうか。 当時のモンゴル人たちがチベット仏教を信仰していたのだとしたら、宗旨は違えど同じ仏教のシンボルを壊すことに抵抗があったのかもしれないが、そのあたりは知識不足でよくわからない。 このマハーボディー・パヤーはバガンでも珍しいインド風の様式のパヤー(パゴダ)とのことだった。言われてみると確かに、どこかで見たことのある形である気がしないでもない。僕は、南インドのトリヴァンドラムを訪れた際に見に行ったパドマナーバスワーミ寺院を思い出していた。 「かわいい」と先輩が褒めたよくわからない像は、建てられた意図も何をモチーフにしているのかも一切わからなかった。かわいくないことだけは確かだった。 エーヤワディー川の岸に立つ修復中の球根型のパゴダの下で、僕らはひとりの日本人と出会った。 話を聞くと、彼女は就活前のモラトリアム期間を謳歌すべく、夏の終わりから一人で旅をしている大学生とのことであった。日本からヤンゴンに飛び、そこからバガンまで来たところだという。音もなく流れるエーヤワディー川を夕暮れ時にひとりでぼんやり眺めて過ごすだなんて、なんと正しい学生の姿だろうか。彼女はこれからエーヤワディー川を船で10時間ほどかけて上り、マンダレーへ向かうらしい。 西日の反射するエーヤワディー川を背景に僕らは記念写真を撮った。連絡先も名前も聞いていないので、彼女がこの写真を手にすることは恐らくないのだろうなあなどと思いながら別れを告げた。 西日はいよいよその傾きを増し、日没が近いことを僕らに教えてくれた。ドライバーはその日の締めくくりにと、夕日を見るのにピッタリのパゴダまで連れていってくれた。 僕らと同じように、一日の終りにとっておきの贅沢をしようと多くの外国人がそのパゴダに向かっている。広々としたオールドバガンの四方八方から、ある者は自転車で、ある者は馬車で、またあるものは車でひとつのパゴダへ急ぐ。土埃を舞い上げて進む彼らや僕らの姿はどこか必死で、滑稽でおかしかった。 いつの間に

ミャンマー(その10) - 100ミリちょっとの

パゴダの中には大抵仏像が安置されている。それぞれのブッタは微妙に表情を変えていたが、どれも凛々しくもなければ穏やかでもない。そのひとつひとつを僕らは「ほー」だの「へー」だの言いながら眺めて回った。 いくつのパゴダを回ったのか定かでないが、とにかく数えきれない仏塔を見てはその度に感嘆し、時折、カラカラに乾いた喉を水やジュースで潤した。 先輩の飲んでいたレッドブルは甘ったるく、炭酸が抜けていた。あるいは炭酸など最初から入っていなかったのかもしれない。 そうして僕らは、尖塔を鱗のように装飾されたバガンで最も有名であろうアーナンダ寺院へとたどり着いた。 寺院の東西南北の四方にはそれぞれ高さ10m程度の4体の仏像が安置されている。恐らくバガンで最も美しく装飾されているであろうブッダの像は、やはり不可解な表情を浮かべていた。 これらの像に向かい、幾人かのミャンマー人が跪く姿が見えた。このパゴダも、外国人観光客にとっては単なる観光の対象の遺跡でしかない一方、現地の人々にとってはいまだに静かに祈りを捧げる現役の寺院なのであった。 あまりに多くの人々が金箔を塗りたくるので、その表情が原型を留めていないブッダもいる。 ひと通り寺院の中を見学した後、僕らは誰ともなしに外に広がるテラスのような場所に向かった。日のあたっている石畳は相変わらず焼けるように熱いが、木陰になっている場所はひんやりと冷たくて気持ちが良い。 木の下に寝転がり、空を仰ぐ。枝々の間から覗く空はアホかと思うほど青かった。ふと、この痛快な面々がひょんな事からこんな辺鄙な地で一同に会している事実が面白くてしかたなくなって、堪らず笑ってしまった。なんと素敵な休日だろう。 しばらくその場で、思い思いの格好でごろごろしていた僕らは、また誰ともなしに空腹を訴えるようになった。 そういえばパゴダの外ではドライバーを待たせている。本人の考えているであろう観光スケジュールなどお構いなしに好き勝手やっている日本人の帰りが遅いことに、彼はさぞやきもきしているであろう。少し申し訳ない気持ちがした僕らは、やや急ぎ足で彼の待つハイエースに戻ったが、彼はまったく気にしていない様子で、出会った時と同じニコニコ顔を湛えていた。 思い切って彼に腹が

ミャンマー(その9) - ロング・シーズン

遺跡群に向かう前に、ドライバーは小さな仏僧たちの学校のような所に連れて行ってくれた。 ちょうど昼飯時だったようで、幼稚園児から小学校低学年くらいのちび仏僧たちがもりもりと飯を食っている。その光景を写真に収めろと彼は言う。いかにも外国人観光客が好みそうな絵なので善意で薦めてくれていたのだろうが、飯を食ってるところにどでかいレンズを向けられて良い気持ちのする奴はいない。おまけに彼らは、自分たちが外国人たちの好奇の目に晒されている事に気づいていながら、一切の抵抗もしなければ、金をせびってくることもない。シャッターを切るのはなかなか気の引けることだった。 ガンジス川ではくそったれ似非サドゥーが自ら進んで被写体になり、寄付をよこせなどとアホみたいなこと言ってくる。アレッピーのチャイニーズ・フィッシング・ネットを使った釣りの様子を見に行けば、見物料を請求される。サパの少数民族が家々をホームステイ先として開放しているのなんて立派なビジネスだ。 君たちは何だ。僕らの存在に気づいてチラッと目を向けはするものの、レンゲを口に運ぶ仕草を止めようとさえしない。 彼らの食事風景を眺めていると先生と思しき大人の仏僧が現れ、僕らのほうに近づいてきた。きっと怒られるんだ。そう直感して身構えつつも、この無抵抗ながきんちょたちを守る人間がいるという事実にホッとした。ところが僕らは怒られなかった。その代わり、その仏僧は僕らに、日本人の寄付によって植えられた小さな苗木を見せてくれた。そうじゃないだろう。君たちは何なんだ。たいそう居心地が悪くなった僕らはすぐその場を離れた。ドライバーは不思議そうな顔をしていた。 しばらくハイエースに揺られた僕らはようやくオールドバガンと呼ばれる、遺跡群が広がる広大なエリアに到着した。車の中では散々馬鹿な冗談ばかり言っていた気がする。 オールドバガンのパゴダの大抵が赤レンガで作られたものであり、数百年の時を経てなおその形を留めている。 各パゴダの立つ敷地内では履物を脱がなければならない。仏塔の中に入ることができるものもあれば、その外壁を登ることができるものもある。 オールドバガンに着いてすぐに連れてこられた小さなパゴダは登るにはちょうどよさそうな高さだった。レンガの上は1分と立っていられ

ミャンマー(その8) - メロディ

ミャンマーの朝はモヒンガーから始まる。モヒンガーを食わずしてミャンマーを語る事なかれ。みたいな言説をあちこちで見かけていたので、何としてでも食わねばなるまいと思っていた。 ナマズ、もしくは川魚から出汁を取ったスープに米粉でできた細く柔らかい麺が沈んでいるのが基本的な形状であり、その他の具材は各モヒンガー屋がそれぞれ創意工夫を凝らして好き勝手突っ込んでいるようで、味は店ごとにだいぶバラつきがあるらしい。 その日、朝っぱらからゲストハウスを探してニャウンウーをウロウロしていた僕らは、街角のレストランでモヒンガーをぱくつくミャンマー人を目にし、するりとその店に吸い込まれた。 僕らがついたテーブルには予め中国茶とカップが置いてあった。朝の陽光がカップについた土埃を露わにする。 モエ・モエ・ウィン。なんともふざけた響きだが、このレストランの名前である。 メニューと睨めっこしたのも束の間、3人ともやはりここはモヒンガーを注文した。 出てきたモヒンガーは肥沃な泥を抱えてたゆたうエーヤワディー川さながら濁っていて、なかなかのインパクトを感じたが、レンゲで掬ってみたスープはその見た目とは裏腹にさらさらとしたものだった。口に含んでみると、魚臭さはあるもののさっぱりとしている。味は魚由来の出汁が主体の素朴なもので、一緒に煮込まれたであろう何種類かのよくわからない植物がささやかに彩りを加えていると言った感じだろうか。レンゲ一杯分のスープが二日酔いの疲れた胃にじんわりと染みこんでいく様を感じ、思わずほっとした気分になった。箸で啜るよりもレンゲで切って掬ったほうが食べやすい麺はおかゆを連想させるような柔らかさで、これまた優しい。驚くほど美味いものでもないが、これはこれで悪くない。 トッピングとして出されたライムを絞りに絞ってありったけのパクチーを突っ込むと、魚臭さが消えて自分好みの味が完成し、あっという間にぺろりと平らげてしまった。 外を見やると旅行客を載せた馬車がトロトロと走っている。この土埃の舞う灼熱のバガンをあんな乗り物にガタゴト揺られてちんたらまわっていたらさぞ辛いだろう。 朝食を済ませた一行は、件のレストランの近所にある小さなゲストハウスに3人部屋が空いているのを見つけて転がり込んだ。その後、バガン遺跡群をどう巡るかしばし議論したが、朝方の

ミャンマー(その7) - ジャスト・シング

朝5時半ころ、僕らはヤンゴン空港の国内線ビルにいた。 前の晩は何時に寝たか定かでない。酩酊状態でゲストハウスに到着後、自分で思い返しても驚くほどテキパキとシャワーを浴び、糊はあまり効いてないものの冷たくて気持ちの良いシーツの中にするりと滑り込んだのだった。 「4時ですよー」 眠ったと思った次の瞬間聞こえた先輩の声を目覚ましにのそのそと動き出し、6時半のフライトに乗り込むべく、夜も明けぬうちにゲストハウスをチェックアウトした。 明らかにスティル酔っぱらいな先輩たちは、カウンターでチェックインを済ますなりこの早朝からビールを煽っている。馬鹿だ。 搭乗時刻になり、小さなプロペラ機に乗り込む。 目的地はバガン。まさか自分の人生においてアンコール・ワットより先に目指すことになるとは思っていなかった、遺跡群の広がる屈指の仏教聖地だ。 搭乗を済ませた僕は、離陸してすぐに眠りの淵に引きずり込まれたのだった。 目を覚ますとそこは既にバガンだった。空港は簡素な作りで、バゲージ・クレームにはベルトコンベア的な設備もなく、空港職員が荷台に乗っけられたかばんをホイホイと建物の中まで運んでいた。 遺跡群を観光する目的でバガンを訪れた外国人は、入域料として$10を払わなくてはいけない。空路でバガンに降り立った僕たちは空港でこの金を払い、チケットを手にした。 バガンという場所は、外国人客を探す流しの馬車がウロウロしたりビールを振舞う店の英語表記の看板があちこちに立てられていたりと、観光地らしく幾分うかれた雰囲気の街であるが、それでもミャンマー最大の都市で喧騒渦巻くヤンゴンから来てみるとのどかで静かな場所であるように感じた。 ゲストハウスの集まるニャウンウー村までタクシーで運ばれる間、捕まえた日本人3人組に取り入ろうと、ドライバーはへたくそな英語で一生懸命僕らの国についての知識を披露してくれた。どうやら彼は、僕らのバガン観光の足となるタクシーチャータープランを売り込みたいようだった。いつもならこの手の輩を相手にする気になれないのだが、このドライバーはどこか憎めないばかりか何か誠実さのようなものまで感じる奴だったので、僕らはとりあえず名刺だけもらってニャウンウーの市場でタクシーを降りた。 時刻はまだ朝8時過ぎ。本来なら睡眠不足と

ミャンマー(その6) - スマイリング・デイズ、サマー・ホリデイ

段々と調子づいてきた僕らは、少し強めの酒を飲みたくなった。周囲のテーブルを眺めてみると、ミャンマー人たちは何やらウイスキー風のボトルからコップに酒を注ぎ、氷と水で割って飲んでいる。ほほう。 GRAND ROYALとかいうのちのちまで語りぐさになるのは明らかなこのウイスキーが、この夜を激しくドライブさせていくこととなる。氷と水の他に、店のボーイに無理を言ってライムとソーダ水も用意してもらい、キックオフ。 そこからの狂乱っぷりについてはだいぶ記憶が曖昧だ。隣で飲んでいた3人組のミャンマー人に話しかけられ、打ち解けた。彼らは弁護士とのことらしく、なるほど確かに彼らの話の節々にはほのかに教養の香りがするなあなどと当時感じていた気がするが、今となっては何を話していたのか全く覚えていない。学生時代の専攻や現在の職業について聞かれた気はする。 夜も更けた頃には数本のGRAND ROYALが空になり、3人の日本人と3人のミャンマー人は完全に出来上がっていた。 「クラブに行こうだってさ」 「いきましょう!」 まさかミャンマーに来てまでクラブで遊ぶことになるとは想像していなかったが、ここは流れに身を任せてみよう。6人はタクシーを捕まえ、薄暗いダウンタウンの中、ナイトクルージングが始まった。 街なかを右へ左へ、途中、ミャンマー人のひとりが着替えで自分の家に寄ったりしつつ15分ほど走ると、見るからに怪しげな建物が現れた。セキュリティの男たちに連れのミャンマー人たちが何か説明し、エントランス料を払う。どうせふっかけられるんだろうなと身構えたが大したことない金額だった、気がする。 インドで現地の若者と意気投合してクラブに連れてかれそのしょぼさにガッカリした事が何度もあるので、実はこのときも大して期待していなかったのだが、ヤンゴンのここ(名前は「パイオニア」というのだそうだ)は東京のちょっとしたクラブも顔負けの立派な設備を備えていた。きらびやかな照明に、十分でかい音、広々としたダンスフロアに加え、青いLEDが設置されたバーカウンターにはバーテンが2名もいた。 何よりも驚きだったのは、かかっていたのが紛れも無いエレクトロで、踊れる音楽だったということ。こんな事を言っては怒られるかもしれないが、ミャンマーポップスやミャンマーヒップホップを聞いていると、とて